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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

7.生活領域と交流

縄文土器の様式マップ 縄文土器は全国各地で形やデザインの流儀を同じくするまとまりがあります。ほぼ同じ時期の東日本の土器を比べてみるとそれぞれの個性が際だって見えますが、共通する要素も見え隠れします。

火炎土器様式(新潟県笹山遺跡出土、国宝、十日町市博物館提供)
火炎土器様式|写真
大木(だいぎ)式土器様式(福島県石生前遺跡出土、柳津町教育委員会提供)
大木式土器様式|写真
加曽利E式土器様式(行司免遺跡出土)
加曽利E式土器様式|写真
曽利式土器様式(長野県曽利遺跡出土、重要文化財、井戸尻考古館提供)
曽利式土器様式|写真

生活の領域

 縄文人たちの行動範囲は、どれくらいの広さがあったのでしょうか。比企郡の縄文時代中期の遺跡を調べると、大きなムラはだいたい3〜5キロメートルの間隔をおいて点在しているのがわかります。逆に考えると、片道小一時間程度の範囲が、日常の食料を十分に賄える、隣ムラともうまく折り合っていけるムラの領域、ということになります。
 しかし、縄文人の活動はこの領域には留まりません。必要なものは、野を越え山を越え、時には海を渡ってでも手に入れています。その代表例が黒曜石です。弓矢などの石器に最適なのに、産出地は限られているのです。行司免遺跡から出土した黒曜石は、100キロメートルも離れた長野県和田峠産でした。

行司免遺跡の生活領域
行司免遺跡の生活領域|地図 行司免遺跡の周辺には、3つの大きなムラがあり、それぞれ直径3kmほどの遺跡群のまとまりがあることがわかります。その他の多くは、非常に小規模なムラと臨時のキャンプ地のような性格の遺跡です。

縄文人の交易

 縄文人が必要な物資を調達する時は、ただ遠方に出向くだけでなく、自分も何かしらを携えていきました。物々交換、つまり交易が行われていたのです。
 自分のムラと我が家を基点とした日常の活動では、不足するものがいくつも出てきます。それらはよそのムラの領域にあるので、分けてもらうことになります。こうして交易は、定住生活を始めたことによって、自然発生的に生まれたと考えられます。
 たとえばヒスイは、新潟県糸魚川市の姫川支流に産出する希少な石です。ところが、ヒスイ製の装飾品は全国各地の遺跡から発見され、縄文人に愛用されていました。

黒曜石とヒスイの原産地と交易図 黒曜石とヒスイの原産地と交易図(平尾良光・山岸良二編1998より作成) どちらも原産地が限られた貴重な資源です。青森県三内丸山遺跡では和田峠産の黒曜石と糸魚川産のヒスイが出土して、その交易・流通範囲の広さに驚かされました。行司免遺跡では信州・箱根・伊豆・神津島それぞれの産地の黒曜石が出土しています。

ヒスイ原産地(国指定天然記念物、小滝川ヒスイ峡)
ヒスイ原産地|写真 日本における品質の良いヒスイの原産地は、富山県と新潟県境の糸魚川周辺です。写真は糸魚川市で日本海に注ぐ姫川の支流、小滝川のヒスイ峡です。
ヒスイ製大珠(山梨県三光遺跡出土、御坂町教育委員会提供)
ヒスイ製大珠|写真1 ヒスイの緑が鮮やかです。長さは11.1cmです。
ヒスイ製大珠(後谷遺跡出土、桶川市歴史民俗資料館提供)
ヒスイ製大珠|写真2 ヒスイ製の大珠です。
行司免遺跡出土大珠
行司免遺跡出土大珠|写真 長さ7.25cmです。ヒスイは手に入らなかったのでしょうか、地元産の蛇紋岩を代用しています。
行司免遺跡出土黒曜石
行司免遺跡出土黒曜石|写真 中期の住居跡から出土した黒曜石を分析した結果、長野県和田峠周辺の星ケ塔、男女倉産が多く、箱根、柏峠産や神津島産も少量ありました。黒曜石を求めて広く交易していたことがわかりました。
長野県和田峠採集の黒曜石
長野県和田峠採集の黒曜石|写真 火山ガラスとも呼ばれる黒曜石は、鋭い割れ口を利用して石鏃や石匙など鋭利な刃物に加工されました。
長野県和田峠周辺の黒曜石原産地
長野県和田峠周辺の黒曜石原産地|写真 長野県和田峠周辺には、星ケ塔や星糞峠など良好な黒曜石原産地があります。和田峠産の黒曜石は中部・関東地方の遺跡から出土し、縄文時代には広く交易されていました。