嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
3.行司免ムラの変遷(1〜3期)
ムラの栄枯盛衰
行司免遺跡からは、260軒以上の住居跡が発見されました。全体の図を作ると、住居がびっしりとドーナツ状になっています。これは数100年にわたる時の積み重ねの結果です。代々同じ地に住み、家を建て替えたり、あるいは住人が増えて、新たに家を構えたりしていったからです。
遺跡から出土した土器は、11段階に分類することができました。家の跡に残された土器を手がかりに、住居がどの段階に属するかを調べると、繁栄と衰退、そして消滅までの行司免ムラの歴史を辿ることができます。また、時期ごとのムラの家々の配置の変化、家のつくりの違いもわかりました。
集落の始まり
1〜3期
縄文時代中期の中ごろに行司免ムラは誕生しました。最初の1期は約13軒、2期約20軒、3期約23軒です。なお、住居数を約とするのは、時期を決定できないのが80軒ほどあったためです。実際の住居は、記載した数字より2、3割多いとみてください。
住居の分布は、北西側が開いた三日月形をしています。全体図の円形に密集した住居群よりは東にずれています。配置もやや乱れているようにも見えますが、浅い谷のくぼ地を利用した土器捨て場はすでに2か所に設けられていて、ムラ全体の設計図は最初からでき上がっていたことがわかります。家の面積は平均5〜6坪です。炉は床を掘り窪めただけの地床炉(じじょうろ)と、周りに石を置いた石囲炉(いしがこいろ)、炉の中央に土器を据える埋甕炉(まいようろ)があり、この時期に炉の形態が進化していったことがうかがえます。