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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

3.行司免ムラの変遷(1〜3期)

行司免遺跡全測図
行司免遺跡全測図 調査により、住居跡261軒、集石土坑131基、土坑9基、土器捨て場2ヶ所が検出されました。

ムラの栄枯盛衰

 行司免遺跡からは、260軒以上の住居跡が発見されました。全体の図を作ると、住居がびっしりとドーナツ状になっています。これは数100年にわたる時の積み重ねの結果です。代々同じ地に住み、家を建て替えたり、あるいは住人が増えて、新たに家を構えたりしていったからです。
 遺跡から出土した土器は、11段階に分類することができました。家の跡に残された土器を手がかりに、住居がどの段階に属するかを調べると、繁栄と衰退、そして消滅までの行司免ムラの歴史を辿ることができます。また、時期ごとのムラの家々の配置の変化、家のつくりの違いもわかりました。

行司免遺跡航空写真
行司免遺跡航空写真|写真 丸く見える竪穴住居の跡は、何世代にもわたり新築や建て替を繰り返した結果、互いに接したり、重なり合うように密集しています。
1期
行司面遺跡図1期
2期
行司面遺跡図2期
3期
行司面遺跡図3期

集落の始まり

1〜3期

 縄文時代中期の中ごろに行司免ムラは誕生しました。最初の1期は約13軒、2期約20軒、3期約23軒です。なお、住居数を約とするのは、時期を決定できないのが80軒ほどあったためです。実際の住居は、記載した数字より2、3割多いとみてください。
 住居の分布は、北西側が開いた三日月形をしています。全体図の円形に密集した住居群よりは東にずれています。配置もやや乱れているようにも見えますが、浅い谷のくぼ地を利用した土器捨て場はすでに2か所に設けられていて、ムラ全体の設計図は最初からでき上がっていたことがわかります。家の面積は平均5〜6坪です。炉は床を掘り窪めただけの地床炉(じじょうろ)と、周りに石を置いた石囲炉(いしがこいろ)、炉の中央に土器を据える埋甕炉(まいようろ)があり、この時期に炉の形態が進化していったことがうかがえます。

1〜3期の住居・炉跡、出土土器
1〜3期の住居|写真1〜3期の炉跡|写真
1〜3期の出土土器|写真
柱や炉のスペースを除くと、8畳から10畳くらいの生活空間です。4〜5人の家族が暮らしたと考えられます。
1〜3期の土器
1〜3期の土器2|写真 勝坂式(かつさかしき)、阿玉台式(おたまだいしき)と呼ぶ土器様式に相当します。勝坂式は西関東から中部地方に、阿玉台式は関東地方東北部に分布の中心がある土器群です。この時期に様々な地域からやって来た人々が行司免にムラをつくりはじめたことを物語っています。