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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

2.平沢寺の概要

数々の資料は、平沢寺の大きさ、そして歴史の長さを語ります。

秩父諸氏系図
秩父諸氏系図 (古代末から中世前半)
系図上で、嵐山町での活動が確認できる人物は、経筒銘の重綱、大蔵合戦の重隆、重能、菅谷館の重忠の四世代4人。これは、偶然でなくこの時代に秩父氏系諸氏が嵐山町周辺を拠点に活動していたことの証といえます。重綱はまさに後続する秩父一族諸氏の先駆けを果たした人物といえるでしょう。
吾妻鏡の表紙と本文
吾妻鏡の表紙|写真吾妻鏡の本文|写真
(国立公文書館内閣文庫蔵)
吾妻鏡は鎌倉幕府の公式記録。同書の「文治四(1188)年七月十三日条」に平沢寺の院主を僧永寛に任じるとの記事があります。幕府の祈願寺でない地方寺院としてはその扱いは破格で、幕府が当時いかに平沢寺を重視していたかがわかります。文治4年は奥州合戦の前年で重忠の絶頂期であることを考えると、重忠による何らかの後押しがあったのでしょう。
鋳銅経筒/埼玉県指定文化財
鋳銅経筒|写真 (平沢寺蔵)
江戸時代、白山神社の裏山から発見された経筒。この経筒で最も重要な事は、「平朝臣茲縄」つまり「秩父重綱」と考えられる人物の名と「久安四(1148)年」の年号が経筒に刻まれている事です。
方三間堂の建立/町指定文化財
方三間堂発掘現場|写真 発掘調査により、12世紀末から13世紀初頭頃に平沢寺の旧参道ほぼ正面に巨大なお堂が建てられていたことがわかりました。建物は、現在判明している同じ時代の方三間堂としては全国有数の規模で、吾妻鏡の記述と合わせてみると当時の平沢寺の力の大きさをうかがわせます。
奥平家墓地出土板碑
奥平家墓地出土板碑|写真 (平沢寺蔵)
旧持正院の奥平家墓地より出土したといわれている板碑。高さ128cm 、最大幅45cm。阿弥陀三尊形式をとっています。銘文によると、平沢寺本堂大旦那であった沙弥妙賢を供養する板碑で、1399(応永6)年に建てたことがわかります。沙弥妙賢は在世中、大旦那となって平沢寺本堂を造営したことも合わせて知ることができます。
金平遺跡「弘安四年」銘鋳型
金平遺跡「弘安四年」銘鋳型|写真 (嵐山町教育委員会蔵)
現平沢寺の北東1.1Kmに所在する金平遺跡では「弘安四(1281)年」銘をはじめたくさんの仏具鋳型が出土しています。製作された仏具などはほとんど平沢寺に納められたとみられています。このことからこの時期、お堂の修築などが行われていたことがわかります。畠山氏が滅ぼされた1205年以降、有力な支援者を失い当初の絶頂からしだいに衰退していくなかで再興への試みだったのでしょうか。
平沢寺採集瓦
平沢寺採集瓦|写真 (平沢奥平文雄氏蔵)
(拓本/県立歴史資料館提供)
現在の平沢寺霊園斜面から白山神社境内にかけては、中世の瓦が採集されています。瓦の時期はおおよそ13世紀後半から14世紀前半頃。採集された瓦の量や形から屋根の一部分に瓦を葺いた建物が建っていたことが予想できます。
太田資康在陣と梅花無尽蔵
梅花無尽蔵|写真 (国立公文書館内閣文庫蔵)
1488(長享2)年、須賀谷原の戦いに伴い太田資康は平沢寺(不動)明王堂のほとりに陣を張りました。資康の父太田道灌と親交のあった五山の禅僧万里集九は戦いのさなか陣を訪ね、白山神社社頭にて詩歌会が催されました。『梅花無尽蔵』は、漢詩文集で、須賀谷原の戦いや当時の平沢寺の様子をよく伝えています。
東路の津登(つと)
東路の津登|写真 (国立公文書館内閣文庫蔵)
『東路の津登』は連歌師宗長の連歌を載せた紀行文。1509(永正6)年7月、駿河国(静岡県)から白河(福島県)を目指して出発。宇都宮まで至り、兵乱と大雨のため白河行きを断念。帰路、鉢形を経て須賀谷の小泉掃部助の宿所にて1日休み、平沢寺あたりにも立ち寄り歌を詠み、簡潔に寺の様子を伝えています。それによると、平沢寺の本尊は当時不動尊で、池があり古い松がみられ、また歌中の「岩根」のことばから池に大石があったことがわかります。
平沢寺年表
平沢寺年表