4.ケツアブリ|家の行事,畑作の行事
行事が行われるのは、旧暦では六月一日でしたが、新暦以降では、六月一日、六月末、七月一日と色々変化しました。この行事は、嵐山町の他、比企郡・入間郡の一部で行われています。小麦殻(から)やバカ糠(ぬか)を門口で燃やし、行事の名称になっているように、尻をあぶるものです。また、この火をまたいで通れともいいます。そうすると、病気にならないとか、できもんができないといいます。また、この日には小麦まんじゅうを作り、神様に供えます。
体を火にかざすということは、水をかけて身を浄める「みそぎ」と同様の意義があります。
一年の半ばを過ぎようとするこの時期に、半年分の汚れを祓う行事としてはじまったのが、起源と考えられます。
①むかし、むかしのお話です。京の都に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)というたいそう強いお侍さんがおったとさ。
制作:嵐山町青年クラブ(昭和60年頃)
②ある日、時の天皇は坂上田村麻呂に『東の方にはまだまだ悪い者がいて多くの村人を苦しめているそうな。お前が行って助けてやりなさい。』
田村麻呂は侍たちをひき連れて旅に出かけました。
③東松山にある今の岩殿山(いわどのさん)あたりまで来た時、悪いことをする龍がいて困るという話を聞きました。田村麻呂が『では、その龍を退治しよう』と今の将軍沢というところに陣をおき、何日も探しましたが、なかなか見つかりません。
④そんなある夜、田村麻呂の枕元に観音様が立って『これ、田村麻呂。龍の居場所を教えてやろう。岩殿山は99の谷がある。その中で、雪の日に雪の積もらぬ谷に龍が住んでおるから探してみなさい』というお告げがありました。
⑤ハッと気がつくと、まだ夜明け前というのに、外がずいぶん明るい。ふとおもての景色を見ると、なんともう6月だというのに雪が降っていました。
⑥雪はみるみる積もり、朝には30cmほどになっていました。田村麻呂は侍たちを連れて、雪のない谷を探しました。あちこち歩くうちに『あったあった』と1人が叫びました。そこは、ぐらぐらと煮えたつ沼でした。
⑦それっとばかりに田村麻呂と侍たちは、その谷へ飛び込みました。
すると龍が大きな口を開けて、みんなを飲み込もうとします。
⑧しかし、こちらもきたえた腕、負けてはいません。はげしい戦いが続き、侍たちは傷つき、龍も刀であちこちを切られました。
⑨とてもかなわぬと、傷ついた龍は山の中へ逃げ出しました。侍たちが追いに追い、とうとう山の途中の坂道で退治することができました。それでこの坂道を、蛇坂というようになりました。
⑩田村麻呂と侍たちは、着物がびしょびしょになってしまい、寒い寒いと凍えながら帰る途中、それを見た親切なおばあさんが『まあまあ寒いでしょ。一休みしてください』と庭へ麦わらを積んで火をつけてくれました。
⑪前の方が乾くと、今度はおしりの方を乾かしました。そのうち、おばあさんはおまんじゅうを持ってきて、ごちそうしてくれました。みんな喜んで火を囲みました。
この朝が6月1日でした。
⑫嵐山町では、6月1日なるとどこの家でも庭かカイドーで麦わらを炊き、この時のことを語り合いながら、みんなおしりをあぶります。これをケツアブリといい、ケツアブリをしておまんじゅうを食べると、身体は健康で体力がつくといわれます。この習慣は、埼玉県内のあちこちで行われていましたが、昭和の初め頃から次第に行われないようになりました。
ところで、龍を退治した田村麻呂たちは、また旅を続け、東北地方まで行ったそうだとさ。
坂上田村麻呂
【農繁期のはじまる風景】
ケツアブリと坂上田村麻呂の伝説の関わりは比企・入間両郡に広く伝承されていますが、埼玉県内では、美里町にも坂上田村麻呂伝説がみられます。身馴川にすむ大蛇を坂上田村麻呂が、赤城大明神に誓願をし、退治したので、真北の赤城山の方に向いている北向神社や薬師堂などを建立したという伝説で、岩殿観音の伝説と類似した内容になっています。全国の坂上田村麻呂伝説をみると、数が多いのは東北であり、社寺の建立に関わるものであり、そのときに坂上田村麻呂が滅ぼす相手は蝦夷(えみし)です。それは、埼玉県の坂上田村麻呂伝説が、蝦夷征討の途中での話になっているのと、符号しています。
将軍沢日吉神社
麦秋(ばくしゅう)、梅雨の時期でもありますが、晴れれば暑いという時です。
麦の刈り取りは6月初旬から中旬で、田植えなどの仕事と重なり、農家にとって最も忙しい季節です。
小麦まんじゅう、小麦を収穫した後には、まんじゅうを作る機会が多くなります。