嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
COLUMN
4.コラム:銅銭・渡来銭・ゼニ
銭の流通のはじまり
古代には和同開珎(わどうかいちん)をはじめ十二種類の銭貨が朝廷によってつくられましたが、全国的に、また一般民衆の生活にまでは浸透しませんでした。中世になって商業活動が発達するに従って、それまでの物物交換から銭による貨幣経済が求められるようになりました。当時は中国でつくられた宋銭(そうせん)や明銭(みんせん)が東アジアでひろく流通していたため、日本でも中国から陶磁器などとともに大量に輸入され、全国に流通していきました。
なぜ埋められ、
わすれられたのか。
備蓄銭(埋納銭)は北海道から九州まで日本全国で見つかっています。銭貨が日常のなかで使われ、財産として扱われるようになると、有力者や商人はもちろん、一般の民衆も土地の売買など場合によっては大量の銭を保管しなければなりませんでした。大切な財産である銭を安全に保管するために地下に埋めたのではないかと考えられます。
銭を埋め、隠すということから当然その場所を知っているのはごく少人数のことだったでしょう。そうした人がなんらかの理由でいなくなってしまったため、備蓄銭(埋納銭)は山根遺跡のように永い眠りについたのでしょう。
- さし銭
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『山王霊験記』(大阪府和泉市立久保惣記念美術館蔵)
紐を通してまとめた銭を「さし銭」といいます。縁側にさし銭が置かれ女性が金貸しと話をしています。さし銭の100文は銅銭100枚ではなく、普通96枚前後でまとめたものでした。さし銭100文の価値は室町時代ではおよそ米一斗が買えるほどだったようです。 - 民衆のなかで銭が使われる様子/国宝
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『一遍聖絵』岡山県備前福岡市(清浄光寺提供) - 備蓄銭の出土状況
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長野県中野市西条岩船遺跡
(中野市教育委員会提供) - 備蓄銭の出土状況
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福井県福井市一乗谷遺跡
(一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供) - 備蓄銭の出土状況
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広島県福山市草戸千軒町遺跡
(広島県立歴史博物館提供)