嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
2.遺構と遺物
営まれた生活はどのようなものだったのでしょうか。
誰が埋めたの?
山根遺跡からは所狭しと掘られたたくさんの小柱穴が見つかっています。一部分だけの発掘調査だったので、はっきりと建物跡とわかるような配置はわかりませんでしたが、狭い範囲に建物が集中していたと思われ、そのほかにもお墓と考えられる土坑や石を敷き詰めた配石土坑なども見つかっています。
約15,000枚の備蓄銭もこれらの遺構の中から発見されましたが、この大量の銭を埋めたままいなくなってしまったのはどんな人々だったのでしょう。大量の銭や当時の武士層や僧侶に広がった喫茶の風習を裏付ける天目茶碗(てんもくぢゃわん)の出土、小倉城との位置関係からもここに住んでいた人びとは一般庶民ではなく、武士ではなかったかと考えられます。
- 備蓄銭(埋納銭)
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浅く掘られた小さな穴に約100枚の銅銭が紐で綴られて50束、約5,000枚が1つにまとまって埋められていました。銭は、ワラに包んで埋められていたと思われます。3ヵ所で同じように埋められており全部で約15,000枚が発見されました。
- 小柱穴群
- 柱穴がこれだけ密集しているのは同じ場所で何度か建て替えが行われたことを示しています。
- 土坑
- この土坑は銅銭が出土していることから、お墓と思われ、銅銭は死者に副葬されたものなのでしょう。
- 天目茶碗(てんもくぢゃわん)
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天目茶碗は、僧侶や武士層に拡がった喫茶の風習により広まり、用いられた茶碗です。
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