嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
4.板碑の変質
人が作り出すものは皆、時の流れとともにその姿を変えていきます。
あるものはよりよい形へと進化し、あるものは本来の意味を失ってすたれます。
板碑もまた例外ではありません。
- 念仏をとなえる人々(中世の講の様子)
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『融通念仏縁起』(クリーブランド美術館提供)
疫病から逃れるため念仏をとなえる人々の姿は、中世の講の様子をあらわしています。
- The Cleveland Museum of Art, 1996, Mr. and Mrs. William H. Marlatt Fund, John L. Severance Fund, Edward L. Whittemore Fund, 1956.87
民間信仰への広がり
作られ始めてから約百年、1400年代になると、板碑の性格は少しずつ変化していきます。それまでは個人、あるいは一族の代表者が供養のために造立するのが一般的でしたが、血縁のない村人たちも集団で、自分たちのための板碑を作るようになったのです。この集団は仏教宗派を同じくする人達の集まりで、「結衆」(けちじゅう・けっしゅう)と呼ばれます。結衆は四〜五名からときには百名以上に及ぶこともありました。板碑にはこの人々の名前が記されますが、中に一人僧侶とおぼしき立派な名が含まれることがあります。結衆が村内の寺を中心として組織され、おそらく僧侶が発起人のようなかたちとなって板碑が作られたことがうかがわれるのです。
- 月待供養の板碑(埼玉県立嵐山史跡の博物館蔵)
- 嵐山町菅谷館跡出土。「本願」とあるのはおそらく発起人の意味でしょう。その彦次郎以下15名が記されています。「了浄同たら子」などというのは、夫婦なのかもしれません。親近感を覚える名前が並びます。
月待(つきまち)板碑・申待(さるまち)板碑
「月待」とは、毎月23日に村人が集い、飲食などをしながら月の出を拝む行事です。3日、17日などに行われることもありました。平安時代以来の様々な習俗が混然となってできあがった民間信仰のひとつです。宗教的というよりもむしろ村の寄り合い、親睦会といった性格のほうが色濃く、村人の結束の強さを相互に確かめ合う場となっていたようです。集会所として寺が使われたこともあったのでしょう。そして月待の供養として板碑が造立されました。同じような民間信仰に「庚申待(こうしんまち)」(または略して「申待」)というのがあります。これは60日に一度めぐってくる庚申の晩に同じように集まり、夜を明かすものです。この供養塔婆も多く作られました。庚申信仰は、江戸時代に入ってからも庶民に根強く支持され、板碑の消滅後は、まったく姿を変えた「庚申塔」として引き継がれていきました。