嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
2.嵐山町の板碑
親や先祖を供養する板碑。町にはおよそ550基。
板碑の誕生
板碑は「板石塔婆」とも呼ばれるように、亡くなった親や先祖を供養する塔として作られました。現在の私達が、法事などに際して木製の「卒塔婆(そとうば)」を墓に立てるのと、基本的に同じと考えてよいでしょう。誕生したのは、鎌倉時代にはいって30年ほどたったころのことです。平安時代の末ごろから、都の最高位の貴族の間では、数万本、ときには30万本などという膨大な数の木製の塔婆を寺院に奉納し、供養するのが一種の流行のようになっていました。武蔵国の、現在の埼玉県に本拠地をもつ武士が西国に赴いたときにこれを見て、国元に帰ってから形をまね、材質を石に変えた塔を建てたのが始まりだろうと考えられています。その後、板碑は埼玉を中心として急速に普及し、やがて全国に広まっていきました。
埼玉県が1980年に実施した調査では、2万基以上の板碑が確認されています。嵐山町では、1990年に調査を行って527基を確認し、その後発掘調査などで20基あまりが新たに発見されました。
板碑の変遷
初期の板碑には、仏像の姿をそのまま写しとっているものが多く見られます。図像(ずぞう)板碑と呼んでいます。ほとんどが阿弥陀如来(あみだにょらい)像(お一人だけの一尊像と三尊像とがあります)です。これと並行して、梵字(ぼんじ)を刻むものがあり、しだいにこちらが主流となっていきました。梵字は、古代インドで使われていたサンスクリット語の文字で、一字で仏の名を示し、転じて仏の姿そのものを意味するようになったものです。これを「種子(しゅじ)」といいます。種子も圧倒的に阿弥陀如来が多く、阿弥陀信仰の影響力の大きさをあらためて感じます。
また、浄土教にはいくつもの宗派があり、時宗で唱える「六字名号(みょうごう)」(南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉)や、日蓮宗の「七字題目(だいもく)」(南無妙法蓮華経〈なむみょうほうれんげきょう〉)が文字で刻まれることもあります。つまり、板碑を調べると、当時その地域にどの宗派が広まっていたかもわかるわけです。
- 阿弥陀一尊種子板碑
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町指定文化財
大蔵向徳寺境内
亡くなった人々の供養を追善(ついぜん)供養といいますが、自分の死後の供養を生前にあらかじめ行うことを逆修(ぎゃくしゅう)供養といい、板碑にもこの「逆修」の文字を多く見ることができます。