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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

4.古墳時代中期

行田市さきたま古墳群|写真 行田市さきたま古墳群(県立さきたま資料館提供) 金錯銘鉄剣を出土した稲荷山古墳をはじめとする前方後円墳9基、大型円墳1基と小円墳群で構成され、5世紀から6世紀にかけて築造されました。古墳群を造らせたのは武蔵国造笠原氏一族と考えられています。

金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)(国宝、県立さきたま資料館提供)
金錯銘鉄剣|写真 表裏に金象眼された115文字の銘文によると、辛亥年(471年)に乎獲居臣(おわけのおみ)がつくらせたもので、先祖八代の系譜を列記し、代々大王の宮を警護する杖刀人(じょうとうじん)の長をつとめたこと、乎獲居臣が獲加多支鹵(わかたける)大王(雄略天皇)の斯鬼宮(しきのみや)で天下を治めるのをたすけたことなどが記されています。

倭の五王

 5世紀は、中国の史書に登場する倭の五王の時代にあたります。ヤマトの大王は、大陸との正式な交渉をもつまでの力をつけていたのです。この時期は行田市のさきたま古墳群の築造が始まり、また隣の群馬県では大型の前方後円墳がたくさん造られました。前方後円墳は、大和政権を象徴する特別な墓です。同じ形の墓を造ることで、政権に認められたと宣言しているのです。
 さきたま古墳群内の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、ワカタケル大王に仕えたオワケ臣のことが記されています。ワカタケル大王とは雄略(ゆうりゃく)天皇と考えられており、熊本県江田船山(えだふなやま)古墳出土の太刀にもその名が見えることから、この頃には大王の権威、権力は、より勢いをつけて全国各地に浸透していったことがわかります。

三ツ寺T遺跡復元模型(かみつけの里博物館提供)
三ツ寺T遺跡復元模型|写真 群馬県で発見された地方豪族(王)の館の発掘調査に基づいた復原模型です。周囲に川の水を引いた濠を巡らせ、三重の柵に囲まれた館の規模は、濠の内側で一辺が100mもの規模があります。

中期の暮らし

カマドの登場

 嵐山でのこの時期の変化は、家庭の中にありました。
 最大の変化は、カマドの登場です。たいへん熱効率のよい調理施設で、実験すると水があっという間に沸騰して驚かされます。カマドの傍らには食べ物の貯蔵庫があり、食器類を片付けておく場にもなっています。家の中に台所スペースが出現したのでした。その代わり、炉端を囲む団らんのひとときは失われることとなりました。またカマドは暖房の用を足しません。家の断熱構造に進化があったこともうかがわせます。
 この時期には、高坏という長い足のついた土器がたくさん作られています。以前は古墳などへの供え物用の特別な器でしたが、一般家庭の食器として使われるようになりました。

左、行司免遺跡83号住居跡 右、竪穴住居のカマド跡(行司免遺跡30号住居跡)
行司免遺跡83号住居跡|写真竪穴住居のカマド跡|写真
1軒の住居跡から出土した土師器(行司免遺跡173号住居跡出土、下は51号住居跡出土状況)
和泉式土器と呼ばれる中期の土師器です。カマドの普及に伴って、炉での煮炊き用の台付甕は姿を消し、甑や大形の甕が目立つようになります。
行司免遺跡173号住居跡出土の土師器|写真
行司免遺跡51号住居跡出土状況|写真

コラム3:武蔵国造の乱

 5世紀の後半から6世紀前半にかけて、武蔵国の国造(くにのみやつこ)の地位をめぐり笠原直小主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おき)の間で係争事件がありました。
 『日本書記』安閑(あんかん)天皇元年(534)の記事を要約すれば、小杵は、上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)を頼り、小主を殺そうとします。これに対し小主は大和朝廷に援助を求めました。事件に介入した大和朝廷は、小主を国造と認め、小杵を殺しました。
 事件後、小主は領地の一部を朝廷に献上し、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(おほひ)、倉樔(くらす)の四カ所が屯倉(みやけ)(朝廷の直轄領)となりました。一方、小杵に味方した小熊は罰は免れましたが、緑野(みどの)の屯倉が置かれ、以後上毛野の勢力は弱まりました。
 この事件は、成長した地方の首長勢力に対し、大和政権が直接支配を強化していった過程を示すものと考えられています。

武蔵国造の乱後に設置された屯倉分布図
武蔵国造の乱後に設置された屯倉分布図 横渟の屯倉は後の横見郡(吉見町から大里町にかけて)と考えられています。