嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
1.円墳時代後期
混乱の六世紀
強大な力を誇った倭の五王最後の雄略が四七九年に没すると、大王の力はいったん弱まります。隙を突くように地方の豪族が大きな反乱を起すなど、六世紀代は権力をめぐっての混乱があった時期です。六世紀前半には仏教がもたらされましたが、受け入れの是非で、政権を支える氏族同士の対立もありました。これも宗教にこと寄せた権力闘争です。
その間にも、新しい文物は次々と大陸から持ち込まれました。日本人の優れた民族性は、これらを奇異なものと排除するのではなく、良いところを進んで取り入れ、自らのものとしてしまう点にあります。大陸では法律によって国を統治しているという情報を得たのもこのころでした。
- 5〜6世紀の東アジア勢力図
- 倭の五王の5世紀代以降、鉄資源や技術を求めて朝鮮半島や中国南朝の宋と積極的な外交を展開しました。当時の朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国と伽耶という小国連合があり、互いに争っていました。倭はこのうち百済、伽耶と親交を結んでいましたが、北陸地方などのように独自の交流を展開して大きな勢力に成長した地域もありました。
- 高句麗双楹塚(こうくりそうえいづか)の壁画
- この時代には高句麗などからの渡来人が騎馬の戦闘をはじめ様々な文物をもたらしたことが武蔵や上野の古墳の出土品からも確認できます。
- 高崎市綿貫観音山(わたぬきかんのんやま)古墳出土銅製水瓶(すいびょう)
(重要文化財、文化庁所蔵、群馬県立歴史博物館提供) - 高さ31.3cm、このような優れた工芸品も朝鮮半島からもたらされたもののひとつです。
- 古里古墳群尾根支群5号墳
- 1990年の発掘調査で円筒埴輪列や馬形埴輪などが出土しました。古里古墳群や川島にある屋田古墳群などの6世紀代の古墳は埴輪をもっています。
- 古墳時代の遺跡分布図
- 泉蔵院(せんぞういん)遺跡
- 大字吉田の谷津の斜面に発見された小規模な遺跡でした。1カ所の住居跡と土器などの捨て場が検出されています。土器捨て場の中から鍛冶炉の跡と鉄の斧が発見されました。当時としては貴重な鉄製の農具などの打ち直しが目的だったのでしょうか、鍛冶がすでに一般の集落でも始まっていたことを教えてくれます。
- 泉蔵院遺跡出土遺物
- 捨て場から出土した土器は膨大な量で、種類も大変豊富でした。この時期の土師器は鬼高式土器と呼ばれます。中に数点の須恵器も混じっていて、一般に普及し始めた当時の状況をよく反映しています。
暮らしの向上
古墳時代は、目を奪われる品々が大陸から波のように押し寄せ、国造りに向けて日々成長を続けた変革の時代でした。
嵐山町内の古墳時代後期の遺跡からも、鉄の道具がちらほらと出土するようになります。地金を鍛えて製品を作る鍛冶炉も発見されました。庶民の家に須恵器という灰色の土器が登場するのもこのころです。須恵器は特に技術と施設を要する、職人が作る土器です。最初は古墳に捧げ物をするときの特別な器でしたが、南比企地方に須恵器を焼く窯ができたりして、この後、一般庶民の食器としても使われるようになりました。
嵐山町では、この時期に群集墳と呼ばれる円形の小古墳が多数現れます。村長クラスや有力者たちの墓です。人物や馬、器物を象った埴輪も立てられています。古墳造りが末端のムラでも認められるようになったということです。