嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
第5節:古墳文化の終わり
- 天武(てんむ)・持統(じとう)合葬陵(図は、飛鳥資料館1987より作成)
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天武天皇は686年に没し、翌年、墓が造られ、その翌年に葬儀が行なわれました。そして、703年に持統天皇がここに追葬されました。この古墳は平面が八角形をしています。7世紀後半以降に即位した大王(天皇)が採用した形です。このことは、大王の地位を豪族たちから超越した特別な存在として位置付けようとしたためと考えられています。
なぜ古墳は廃れたか
『日本書紀』によると、大化(たいか)2(646)年に「薄葬令〈はくそうれい〉」が発せられました。中国の葬制令に倣い、身分ごとに墓の規模や人員などを細かく規定したものです。古墳造りをやめる引金になったと考えられますが、その背景には日本が政治体制を形作っていった大きな時代の流れがあったようです。
地方の首長たちは、中央と同じ古墳を、より大きく造ることで、おのれの権威と力を誇示していました。天皇は彼らに身分を与え、朝廷を支える一員としての役目を負わせていきました。権限が保証されていれば、互いに力の牽制をする必要がなくなったのかもしれません。
時代が天皇を中心とした律令(りつりょう)国家へと移行しつつある中で、前代の象徴ともいえる古墳は消えていったのです。