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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

2.後期から終末期へ

後期の嵐山

新しいムラ作り

 一般の人々の暮らしでは、カマドが全戸に普及しました。食器には脚のない銘々茶碗、坏が登場しました。蒸し器である甑は大型化しました。蒸し米を食べる機会が増えたことを窺わせます。
 この時期町内では、丘陵地に新たにムラが出現します。これは、水田の開発が平坦地から拡大していく過程を示すものとして注目されます。また、ムラの引越しという大きな出来事がありました。大字大蔵の行司免遺跡のムラがある時期にぱったりと途絶え、その直後に1キロほど離れた大字鎌形の東落合遺跡で突然ムラが出現するのです。

ムラの移動
ムラの移動|地図 前期から中期まで続いた行司免遺跡の集落が忽然と姿を消したころ、直線距離で1kmほど西に東落合遺跡の集落が出現します。
古墳時代後期の竪穴住居跡(東落合遺跡20号住居跡)
古墳時代後期の竪穴住居跡|写真 東落合遺跡では部分的な発掘調査でしたが、多くの竪穴住居跡が発見されました。
古墳時代後期の土師器
古墳時代後期の土師器|写真 この時期になると各家にカマドが普及します。カマドに合わせた胴長の甕と大形の甑が目立つようになります。高坏は姿を消し、銘々茶碗として坏が用いられるようになります。
西ノ谷(にしのやつ)遺跡
西ノ谷遺跡|写真 大字吉田の滑川の水源に近い新川の広い沖積地を見下ろす丘陵上に発見された小さなムラの跡でした。北には多くの古墳群が分布する古里の丘陵を見渡すことができます。5カ所の住居跡はいずれも小規模なもので村の営まれた時間も非常に短期間で終わっています。
久保前遺跡
久保前遺跡|写真 大字志賀の市野川の面した河岸段丘上に立地する集落跡です。部分的な調査だったので住居跡は1カ所の発見に留まっていますが、なお多くの住居跡が埋没していると考えられるムラの跡です。

古墳時代の終結

 6世紀の末には推古天皇が即位し、その摂政となった聖徳太子は、律令を国の礎とする国家体制を目指して改革を進めました。7世紀は、大化の改新や壬申の乱などを経て新たな国づくりのための諸制度が整い、律令国家へと移行しつつある段階といえます。この頃から「大王」(王の上に立つ王)の呼称が「天皇」(天下を治める王)に代わるのも象徴的な変化です。
 巨大な古墳は次第に造られなくなりました。中国の制度にならって、身分による葬儀の規模が定められたり、天皇自身が仏教思想に基づく火葬を望んだりしたためです。仏教は、日本の政治と文化の支柱ともいえる存在になりました。天皇が進んで信奉し、奈良の飛鳥周辺には寺院がいくつも建立されました。後世、白鳳期と名付けられる仏教文化が開化した時代です。

法隆寺(奈良県斑鳩町)
法隆寺|写真 聖徳太子の創建と伝えられる寺です。現存する最古の木造建築としても有名です。
高松塚古墳(奈良県明日香村・(株)便利堂提供)
高松塚古墳|写真 華麗な装飾壁画が発見され、空前の古代史ブームとなりました。この時期の古墳は皇族クラスのものでもその規模は意外と小さなものとなっています。

コラム4:横穴墓

吉見百穴横穴墓群(国指定史跡)
吉見百穴横穴墓群|写真
市野川左岸の丘陵斜面に造られた横穴墓群です。1887年に考古学者坪井正五郎が発掘調査し、237基を確認しました。
岩根沢横穴墓
岩根沢横穴墓|写真 大字古里の岩根沢沼奥の丘陵斜面に造られた横穴墓です。現況では1基のみですが、近代の石切場によって破壊された可能性があります。

 吉見百穴(ひゃくあな)は、岩盤をくり抜いて設けられた横穴式の埋葬施設です。墳丘を持たない横穴式石室と考えればわかりやすいでしょう。しかし、岩肌に大小無数の四角い穴が口をあける光景は一風変わっていて、初めは全く性格がわからなかったようです。明治時代に学術的に発掘調査された後も、専門の研究者の間でもこれが墓か住居かで大論争が展開されました。
 横穴墓群が集中する吉見丘陵では6世紀以降、墓の形態が横穴墓へと転換し、塚を持つ古墳は造られなくなりました。
 比企地方では吉見百穴を起点として北部の丘陵に数カ所と鳩山町に1カ所分布しています。

比企地方の横穴墓分布図
比企地方の横穴墓分布図