嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
3.混乱の世の中
中世は誰にとっても先の見えない、 不安の時代でした。
仏教が庶民へも広がる
中世は一言でいえば混乱の時代です。武士たちの力が強まり、勢力のさらなる拡大を図る戦いが続きました。
争乱の中で多くの武士が非業の最期を遂げました。武士たちはいつ自分にふりかかるかわからない死の恐怖とも戦わなければなりません。朝廷とそれを取り巻く貴族たちは、権力を武士に奪われ、行く末に絶望していました。そして、これら一部の人たちの争いの陰で多くの民衆が苦しんでいました。中世は誰にとっても先の見えない、不安に満ちた時代でもあったのです。
こうした世情の中、それまでほとんど貴族に独占されていた仏教は、心の支えとして急速に庶民にも浸透して行きました。
- 飢餓に苦しむ人々/国宝
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『餓鬼草子(がきぞうし)』(東京国立博物館提供 http://www.tnm.jp/)
飢饉に苦しむ餓鬼のすがたを描いた絵巻物です。12世紀の後半という混乱の時代を垣間見ることができます。 - 火災で逃げ惑う人々/国宝
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『北野天神縁起絵巻』(京都市北野天満宮提供) - 中世の戦乱年表と板碑の数の推移
- 戦没者の供養塔/国重要文化財
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(東村山市徳蔵寺蔵、東村山ふるさと歴史館提供)
飽間斉藤氏は、上野国(群馬県)西部に本拠を置く武士で、1333(元弘3)年新田義貞の挙兵に従いました。そして、武蔵国での分倍河原(ぶばいがわら)の戦いで、一族の3名が討ち死にしたことがはっきり記されています。『太平記』などにも見える激烈な戦のさまを、史実として裏づける貴重な生き証人です。 -
(読み下し)
「飽間斉藤三郎藤原盛貞生年廿六、武州府中に於いて五月十五日打ち死にせしむ。同孫七家行廿三、同じく死す。飽間孫三郎宗長卅五、相州村岡に於いて十八日討ち死にす。
元弘三年癸酉五月十五日 敬白」