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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

6.コラム:重忠のエピソード

 鎌倉武士の模範と言われた重忠は、文武両道にわたってすぐれた武士といわれています。その多彩なエピソードは、たいへんに興味深いものが少なくありません。

■重忠の怪力

 関東随一の相撲取り長居(ながい)との逸話も、重忠の怪力ぶりを表しています。長居が「自分に勝てるものはいない」と言ったことから頼朝は重忠との取り組みを命じ、重忠は長居の両肩をつかんで押さえつけ、肩の骨を砕いてしまったということです。(『古今著聞集』)
 また、重忠と、武勇にすぐれた女性である、巴御前との一戦も有名です。木曽義仲と行動をともにした巴の爽やかな印象は、八〇〇年余を経た今も色あせません。1184(寿永3)年義仲を追った重忠は、京都三条河原で巴と遭遇します。重忠は巴に近寄って、よろいの袖をつかみますが、重忠の怪力にかなわないとみた巴は、すぐに馬にムチをあてました。そして、ちぎれたよろいの袖を残したまま、風のように去っていったということです。

宇治川巴御前との一騎打ち
錦絵|写真 「粟津原合戦」綿絵
(埼玉県立博物館提供)
静の舞(しずかのまい)
静の舞|イラスト (画 葛西忠雄)
頼朝に追われ姿を消した義経のゆくえを追求するために鎌倉へよびよせられていた静御前は頼朝・政子夫妻の前で舞をさせられます。重忠はその時に伴奏として銅拍子をうったということです。重忠の音楽的才能は頼朝からも深く愛されていました。
絵馬「重忠力持石」
絵馬|写真 (埼玉県立嵐山史跡の博物館提供)
重忠は怪力の持ち主であったといわれています。「鵯越え」での愛馬を背負った逸話、長居という相撲取りに勝ったエピソード、鎌倉永福寺の庭園造営工事に際して大石を持ち上げた話など、多くの武勇が伝えられています。
永福寺の大石
永福寺の大石|写真 鎌倉市永福寺跡にあります。永福寺の庭園造りの際に重忠は3m余りの大石を1人でもち上げて池の中におき、その怪力に人々を感心させたと伝えられています。実際には戦前の発掘調査で1m30cmほどの大石が発見され、伝えほどの大きさはなかったもののあらためて重忠の力の強さにおどろかされました。
力石大会
力石大会|写真 (県立歴史資料館提供)
重忠の大力にちなんで平成8年から始められた11月14日の県民の日に菅谷館跡で行なわれるイベントです。

■芝居にみる重忠

 江戸時代に流行した浄瑠璃や歌舞伎などの芝居は、『源平盛衰記』や『曽我物語(そがものがたり)』などに題材を求めたものが多く、しばしば重忠が登場します。『吾妻鏡』などの記録にある生前の重忠は常に誠実で、思いやりがあって、大力の持ち主であり、弓馬の道に抜きん出た人物として書かれています。さらに悲業(ひごう)の最期をとげたことが後世には重忠を伝説化し、超人格的なスーパーマンとして芝居に登場させることになりました。「出世景清(しゅっせかげきよ)」「壇浦冑軍記(だんのうらかぶとぐんき)」「ひらかな盛衰記」などの芝居に登場する重忠の人物像は「智仁勇(ちじんゆう)を兼備し、公平無私で忠義に篤(あつ)い」というキャラクターで描かれています。
 このように、重忠が誠実で思いやりのある人物であったことは、いつの時代でも人々の心に感動を与え続けてきました。そしてこれからも絶えることなく語り継がれていくことでしょう。

出世景清
芝居絵版画|
(埼玉県立嵐山史跡の博物館提供)
近松門左衛門が竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために書き下ろした最初の作品として知られている浄瑠璃です。重忠は神変不思議すなわち、人知では推しはかれない不思議さを備えた超人的な人物として描かれています。

■現代に生きる重忠

 昭和3年、東京駒込に住む漢学者小柳通義は『鎌倉三代記』を読んで畠山重忠の人物に感動し、菅谷館跡を訪れました。そこで地元の人々と協力し、重忠の像を建立することを提案しました。現在菅谷館跡二ノ郭の土塁上に立つコンクリート像がそれです。この昭和のはじめは、「武蔵嵐山」の命名者である林学博士本多静六が訪れたり、東洋学を通じて農村に人材を育てようと日本農士学校が菅谷館跡を含んで、現在の国立女性教育会館のある場所に開校したりと、あいついで著名な学者が菅谷館と畠山重忠に注目した時代でした。そして重忠を郷土の誇りとして顕彰する町民の気持ちは、菅谷小学校の校歌や毎年執り行われる慰霊祭や歴史講演会などの記念行事となって継承されています。

菅谷小学校校歌二番の歌詞

「智あり仁あり勇さえありて
あるが中なるもののふ彼と
人に知られし英雄も
かつてはここに住みたりき」