嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
4.重忠の最期
幕府権力を握ろうと急ぐ北条氏。重忠はその謀略に倒れます。
北条氏の陰謀と二俣川の戦い
1199(正治元)年頼朝は、重忠に子頼家(よりいえ)の後事を託して五十三歳で死去しました。しかし、幕府の権力を握ろうとする北条氏にとって、有力な御家人を排除する必要があり、頼朝から信頼が厚かった重忠もその対象の一人でした。
北条時政(ほうじょうときまさ)の夫人牧の方の娘婿、平賀朝雅(ひらがともまさ)と重忠の子重保とが酒席で言い争いをしたことが、北条氏のかっこうの口実となりました。北条時政は、畠山一族に謀叛(むほん)の下心があるとして、1205(元久2)年6月15日重忠を呼び出します。重忠は菅谷館から鎌倉に急ぎますが、途中で重保が殺されたことを知ります。そして22日、武蔵国(横浜市)二俣川において鎌倉の大軍と決戦を交えましたが、ついに愛甲季隆(あいこうすえたか)の矢にあたり、四十二歳の生涯を閉じました。
- 鎧の渡しと首洗井戸
- 横浜市旭区に位置する鎌倉街道が帷子(かたびら)川を渡る場所で、川幅が広く浅瀬となっており、武士が鎧を頭にのせて渡ったと伝えられています。ここには以前は水の湧き出す1mほどの穴があり重忠の首を洗い清めた井戸といわれていました。今は川の流れが変ってどちらも失われてしまいました。
- 重忠首塚
- 横浜市旭区の万騎ケ原古戦場跡にあり、重忠を供養した塚と石塔が立てられています。
- 二俣川と万騎ケ原古戦場跡
- 重忠を迎え討った北条方数万騎が陣を張った古戦場跡。横浜市旭区の二俣川付近です。現在は周辺に住宅が密集し、帷子(かたびら)川の両岸はコンクリートで固められ水量も少なく、古戦場の面影は薄れています。
- 六ツ塚
- 横浜市旭区薬王寺境内には重忠の最期に従った一族郎党134騎を埋葬したと伝える六つの塚があります。薬王寺には重忠の霊がまつられており、毎年命日の6月22日には盛大な慰霊祭が催されます。
その後の畠山氏
二俣川の戦いは、北条氏による重忠一族の謀殺でした。無実で討たれた重忠の死を惜しむ世論の高まりや、重忠夫人が北条氏の出身だったこともあって、後に重忠の旧領は夫人に安堵されました。
そして足利義純と再婚して生まれた子の泰国は再び畠山を名乗るようになります。
ここに平氏の家系である畠山氏は亡びましたが、源氏の出身である足利系の畠山氏へと「畠山」の名跡は継承されたのです。
足利系畠山氏の子孫が、室町時代には幕府の管領をはじめ有力な武将を数多く輩出して活躍したことは歴史上有名です。
深谷市本田の教念寺には1396(応永3)年に畠山氏が所領の一部を寄進したという文書も伝えられています。
- 畠山重保墓
- 鎌倉市若宮大路一の鳥居そばにある宝篋印塔です。伝承では、この付近に重保の屋敷があったと伝えられています。
- 駕籠塚
- 重忠の内室「菊の前」は、合戦の報に接し、急ぎかけつけましたが、重忠の戦死を聞くや、この地(横浜市旭区)で自害したといわれています。遺体は駕籠とともに埋葬され、かつては大きな塚があったということです。
- 鶴ケ峰マップ
- 横浜市旭区の鶴ケ峰周辺は二俣川の戦いの地万騎ヶ原の古戦場跡をはじめ重忠にまつわる史跡と伝承を数多く伝えています。
- 足利系(源姓)畠山氏系図
- 重忠の夫人は、足利義兼の二男岩松義純と再婚し、畠山姓を名乗りました。旧畠山氏の所領も与えられ、以後、足利系畠山氏として繁栄しました。