嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
3.鎌倉幕府と畠山重忠
武勇ばかりか都風の教養も兼ね備えた重忠は、頼朝から厚い信頼を寄せられていきます。
鎌倉幕府開設
源平合戦に勝利した源頼朝は、1192(建久3)年武門の最高位である征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府の体制が名実ともに整いました。多くの活躍もあって、畠山重忠はその頃には頼朝から厚い信頼を受けていました。
加えて重忠は、今様など当時の最新の音曲にも秀でた才能を示しました。京都をなつかしむ頼朝は、武勇がすぐれているばかりか、都風の教養も兼ねそなえている重忠を頼もしく思ったことでしょう。頼朝上洛のとき先陣を務めたり、頼朝の死に際して後事を託されるなど、重忠は鎌倉幕府を支える重要な人物となっていきます。嵐山町の菅谷館と鎌倉の屋敷を往来しながら、幕府に忠勤を励んだことでしょう。
- 頼朝の上洛畠山重忠先陣の図
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(画 田畑修)
1190年奥州を平定した頼朝は、はじめて武家の棟梁として京都に上ることになりました。
重忠は名誉ある先陣を命じられ、黒糸威(くろいとおどし)の大鎧を身につけ、家の子一人、郎従十騎を従えて晴々と行列の先頭を進みます。都大路は、ひそかに見物した後白河法皇をはじめ、この行列を一目見ようとする貴族や群衆でわきかえったと伝えています。 - 鎌倉市街地図
- 鎌倉には、鶴岡八幡宮を中心に鎌倉幕府の歴史を語るゆかりの地が多数残されています。畠山重忠の屋敷跡は、八幡宮の近く。重忠の子重保が討たれたという由井ケ浜の一の鳥居近くには、重保の墓があります。
- 畠山重忠屋敷跡
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鎌倉市鶴岡八幡宮近くに所在していて碑が立っています。
重忠の屋敷は当時の幕府政庁のすぐ隣にあります。将軍頼朝の信頼があったことがわかります。
奥州合戦と永福寺(ようふくじ)の造営
1189(文治5)年、頼朝は奥州平泉の藤原氏討伐軍を送りました。重忠はその先鋒を命じられ、この戦いでも稀な才能を発揮します。敵方の藤原泰衡(ふじわらやすひら)の軍は、阿津賀志山(あつかしやま)近くに強固な城を築きました。そこで重忠は、軍夫を使って堀を埋め通路を造ったのです。当時としては、工兵を使うことじたい奇跡のようであり、結果、阿津賀志山の合戦で城将藤原国衡(くにひら)を討つなど目覚ましい活躍をみせました。
奥州平定後、平泉を見て感動した頼朝は、戦没した人々の霊をとむらうために中尊寺に似せた、永福寺(ようふくじ)を造営します。その庭園造営工事にも、重忠は大石を一人でやすやすと持ち上げ、見ていた頼朝を感心させたということです。
- 永福寺跡史跡記念碑/国指定史跡
- 大正9年に鎌倉町青年会が建てた鎌倉市永福寺跡にある記念碑。
- 永福寺跡発掘調査風景
- (鎌倉市教育委員会提供)
- 永福寺跡庭園
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(鎌倉市教育委員会提供)
近年の発掘調査により永福寺の伽藍配置が明らかになってきています。中央に5間四方の大きな二階堂があり、両脇に同じ規模の阿弥陀堂と薬師堂、前には園池があったことが確認されています。 - 阿津賀志山の戦い
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(福島県立博物館ジオラマ展示・福島県立博物館提供)
藤原泰衡の率いる2万の軍勢は阿津賀志山のふもとに幅5丈(約15m )の堀を掘って阿武隈川の流れをせき入れて強力な守りをかためていました。 重忠は、つれてきた80人の軍夫に用意してきた鋤と鍬をつかって土や石を運ばせ、堀を埋めて通路をつくったと伝えられています。 当時は、戦いに工兵をつかうことが珍しかったらしく、重忠の思慮は神に通じていると賞賛されたと伝えています。