嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
中世嵐山にゆかりの武将と地名
源義賢・木曽義仲親子、畠山重忠を代表とする秩父一族のほかにも、中世の嵐山を舞台として活躍した武将が何人かいたことが知られています。
同時に現在の大字にあたる地名で確実に中世までその起源がたどれるものもいくつかあります。ここでは、数少ない資料から断片的にわかる中世の嵐山町の様子を探ってみることにしましょう。
1.重忠没後の嵐山町
群馬県尾島町長楽寺の文書が、静かに町の足跡(そくせき)を語ります。
- 世良田氏系図
- 将軍沢と長楽寺の位置
- 長楽寺
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(群馬県尾島町教育委員会提供)
中世には世良田氏をはじめとする新田氏一族の氏寺として栄えた寺ですが、江戸時代には徳川氏(世良田氏)の発祥の地として幕府から特別な保護がありました。写真は蓮池と勅使門。
将軍沢郷(しょうぐんさわごう)と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で、群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。
将軍沢は大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によると、ここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は、清和源氏(せいわげんじ)の一門である新田氏の一族で、頼氏(よりうじ)のとき上野(こうずけ)国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は、頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真〈せいしん〉)が、亡息家時(いえとき)の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。また、もう一通は、家時の子満義(みつよし)のとき、将軍沢郷内の二子塚入道(ふたこづかにゅうどう)の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文(かんもん)を長楽寺修理(しゅうり)用途料として寄進するというものでした。
長楽寺は世良田氏の氏寺(うじでら)であり、中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。
- 「正安元(1299)年」沙弥静真寄進状案
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(群馬県新田郡尾島町長楽寺所蔵・群馬県立歴史博物館提供)
文意
「世良田教氏(静真)は、亡息家時の遺言に任せ、比企郡南方の将軍沢郷内の田三段を世良田長楽寺に灯明用途料として寄進する。」 - 「元徳二(1330)年」世良田満義寄進状案
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(群馬県新田郡尾島町長楽寺所蔵・群馬県立歴史博物館提供)
文意
「将軍沢郷内の二子塚入道跡の在家一宇と田三段、毎年の所当八貫文を長楽寺修理用途料として寄進する。
二子塚入道と在家
文書の中に二子塚入道という人名があります。この人物について伝える記録は他にはなく詳(つまびら)かではありませんが、満義が将軍沢を領有する以前にこの地域の一部を支配していた国人領主(こくじんりょうしゅ)であったことを示しています。
在家は二子塚入道に個人的に属していた農民のことです。在家農民は、領主が二子塚入道から世良田氏へ代ったときにそのまま世良田氏へ譲られたのだと考えられます。