嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
COLUMN
3.コラム:記録に現れた地名と武将
- 茂呂季綱(もろすえつな)
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勝田
源頼朝は、少年時代、平清盛によって伊豆へ配流(はいる)されていたときに、茂呂氏が援助してくれたことに感謝して、のちに和泉(滑川町)と勝田を領地として与えました。
(『吾妻鏡』1193(建久4)年) - 太田資康(すけやす)
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平沢菅谷
太田道灌の遺児資康は、1488(長享2)年仇敵(きゅうてき)上杉定正(さだまさ)と「須賀谷原」で戦ったとき、平沢寺に陣を敷きました。道灌と親交の深かった禅僧万里集九(ばんりしゅうく)は、戦い直後の陣中を訪れ、詩歌会が催されました。
(『梅花無尽蔵〈ばいかむじんぞう〉』) - 秩父重綱
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平沢菅谷
平沢寺の境内にある長者塚から江戸時代に偶然掘り出された経筒の銘文にみえる茲縄とは秩父重綱であると考えられます。重綱は、重忠の曾祖父にあたる人で、平沢、菅谷周辺がふるくから秩父氏の勢力下にあったことを物語っています。
(『鋳銅経筒銘文』) - 畠山重忠
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菅谷
重忠は、男衾郡畠山を本拠地としていましたが、のちには菅谷館を中心に活躍していたようです。北条氏の陰謀で二俣川へ向うときにも「菅屋館」を出発したとあります。
(『吾妻鏡』1205(元久2)年) - 小泉掃部助(こいずみかもんのすけ)
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菅谷
連歌師柴屋軒宗長(そうちょう)は、旅の途中、鉢形から菅谷を訪れ、小泉掃部助の館に一泊し、平沢寺の不動堂のあたりを歩いたと自著の紀行文に記しています。
(『東路の津登(あづまじのつと)』1509(永正6)年) - 釜形四郎五郎
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千手堂鎌形
釜形四郎五郎がどのような人物であったかは詳かではありません。現在、入間市の蓮華院にある鰐口は、もとは釜形四郎五郎が千手堂に奉納したものであることが銘文からわかるのみです。
(「千手堂鰐口銘」1461(寛正2)年) - 矢野安芸守(やのあきのかみ)
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鎌形
扇谷上杉氏の家臣であったと考えられる矢野安芸守は、上州円光寺(群馬県藤岡市)の鐘を持ち去り、釜(鎌)形八幡宮へ奉納しました。
(「浄蓮寺梵鐘銘」1479(文明11)年) -
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大蔵
武蔵七党の「野与党(のいよとう)」の系図の中に大蔵氏がいます。もともとは大蔵に住んで苗字の地としましたが、源義賢が秩父(河越)重隆の養君となって大蔵館に移り住んだときに、土地と館を譲り渡したのだともいわれていますが、記録には詳かではありません。
(『武蔵武士』) -
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将軍沢
長楽寺に伝わる文書によれば、将軍沢郷を領していた二子塚入道という国人の跡を世良田氏が領有し、その一部を長楽寺の灯明用途や修理用途料として寄進したとあります。
(「長楽寺文書」1299(正安元)年、1330(元徳2)年)