嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」
2.戦乱のために持ち去られた鐘と鰐口
刻まれた銘文に時代の息吹(いぶき)をうかがうことができます。
千手堂(せんじゅどう)と釜形(かまがた)四郎五郎
現在入間市の蓮華院(れんげいん)にある鰐口(わにぐち)は、刻まれた銘文を見ると1461(寛正2)年に釜形四郎五郎が千手堂に奉納したものでした。この時代は戦乱が激しく、合戦場での合図や敵への威嚇(いかく)のために打ち鳴らす「鳴りもの」として持ち去られたのだと考えられています。
中世の武士は、自分の出身地の地名を名乗ることが多く、苗字の地と呼びます。この鎌形四郎五郎という人物については、ほかに記録がまったく残されておりませんが、釜形を本貫地(ほんがんち)とする小規模な国人領主だったのでしょう。鎌形の地名は、東秩父村浄蓮寺(じょうれんじ)にある梵鐘(ぼんしょう)の銘文にも「釜形郷」という記述があります。この梵鐘もまた、戦乱のために持ち去られ、転々と所在を変えたものでした。
千手堂は、現在では地名となっていますが、この時代には千手観音を納めた堂だったと考えられます。堂の規模については、江戸時代の1843(天保14)年に記録された「村差出明細帳下書(むらさしだしめいさいちょうしたがき)」によれば、三間四面(さんげんしめん)の千手観音堂であり、別当千手院とあることから、ほぼ四〇〇年を隔てた江戸時代の後期までは千手院が管理する小仏堂(しょうぶつどう)として存続していたことがわかります。
- 蓮華院鰐口
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(入間市蓮華院蔵)
釜形四郎五郎が千手堂に納めた鰐口は、戦乱の際に持ち去られたと思われ、現在では入間市蓮華院に所蔵されています。 - 蓮華院
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入間市黒須にある真言宗智山派の寺で寺号は世音山妙音寺といいます。
境内にある観音堂は奈良時代の創建で、本尊の千手観音は行基の作と伝えられます。 - 浄蓮寺梵鐘の移動マップ
- 矢野安芸守は山内上杉方の勢力圏である円光寺から、戦利品としてこの鐘を持ち帰り、八幡神社を経て浄蓮寺へと移しました。
- 浄蓮寺梵鐘/埼玉県指定文化財/高さ99.5cm
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(東秩父村浄蓮寺蔵、埼玉県立博物館提供)
梵鐘は戦乱の世には軍を動かす合図として使用されたため、元の場所を離れることが多かったのですが、この梵鐘の銘文はその経緯を知ることができる点で貴重な資料となっています。 - 浄蓮寺銅鐘銘
- 浄蓮寺/埼玉県指定文化財
- 松山城主上田朝直(ともなお)が病気のときに夢で東秩父村のこの寺を知り、病気治癒(ちゆ)を祈願して全快したのを契機として上田氏一族の菩提寺(ぼだいじ)となったと伝えられる日蓮宗の寺です。上田氏一族の墓や数多くの中世文書、板碑などが県や村の指定文化財となっています。
- 陣太鼓のある合戦場面/国重要文化財
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『前九年合戦絵詞』(国立歴史民俗博物館所蔵)
鎌倉時代の後半に描かれた絵巻物です。大きな陣太鼓を担ぐ人と打つ人の3人がみえます。常に大将の近くにあって味方の全軍に合図を送る役目を果たします。鐘やドラ、鰐口、ホラ貝なども同様に使われました。