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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

COLUMN

4.コラム:義仲の伝承を訪ねて

 木曽義仲は、源平争乱期において、源氏の一方の旗頭として平家追討に大きな歴史的役割を果たした人物です。その生涯は波瀾に満ちた短いものでしたが、ゆかりのある各地域に伝承や伝承地が多く残され、個性豊かな一本気な武将として偲ばれ、慕われています。
 平成元年、木曽義仲ゆかりの市町村が、相互に交流し結びつきを深めることを目的として、「全国木曽義仲ゆかりの会」が結成されました。会に加わったのは、木曽義仲生誕の地・埼玉県嵐山町、義仲成育の地であり旗挙げの地でもある長野県日義村、倶利伽羅峠の戦いのあった富山県小矢部市埴生(おやべしはにゅう)地区、義仲の重臣大夫房覚明(たいふぼうかくめい)と三六家臣団が義仲の三男義重(よししげ)をかくまった広島県向島(むかいしま)町などの七つの市町村です。その後、年一度の持ち回りにより総会を開き、交流を深めています。

木曽殿アブキ
木曽殿アブキ|写真
(鬼無里村提供)
長野県上水内郡鬼無里村にある間口60m、奥行20mの大岩窟です。義仲軍が北陸道へ進軍した際に訪れ、騎馬300騎を休めたと伝えられています。
火牛(かぎゅう)の像
火牛の像|写真 (小矢部市提供)
倶利伽羅峠古戦場跡にあります。「火牛の計」を示すものとして作られています。「火牛の計」は、500頭の牛の角に松明を付けて平家軍に夜襲をかけたという戦史に残る有名な戦略ですが、おそらく『源平盛衰記』の作者が、中国の書の火用の術からヒントを得て書いたものでしょう。
実盛首洗池
実盛首洗池|写真 (加賀市提供)
石川県加賀市篠原古戦場跡にある池です。討ち取られた実盛の首は黒髪でしたが、この池で髪を洗ったところ白髪になったということです。
実盛の兜/国重要文化財
実盛の兜|写真 (石川県小松市多太神社提供)
実盛が最期の時にかぶっていた兜と伝えられるものです。俳人芭蕉は「むざんやな甲の下のきりぎりす」という句を詠んでいます。また、江戸時代に松平定信が編さんした『集古十種』にも図が収められています。
義仲伝承マップ
義仲伝承マップ|画像
山吹御前首塚
山吹御前首塚|写真 京都市立有済小学校校庭にある供養塔です。
玉泉寺(ぎょくせんじ)
玉泉寺|写真 (新州新町教育委員会提供)
もとは京都にあって、義仲の祖父源為義が帰依したのに始まり、義仲没後にこの地へ遷されました。長野県信州新町は義仲の重臣仁科氏の領地であり、旭観音菩薩像が安置されています。
根井行親(ねいゆきちか)の墓
根井行親の墓|写真 (佐久市教育委員会提供)
長野県佐久市には、義仲の参謀役であり最大の協力者であった根井行親一族の館跡と菩提寺正法寺があります。根井行親の墓は正法寺にあります。
亀森(かめもり)八幡宮
亀森八幡宮|写真 (向島町教育委員会提供)
義仲の没後に、重臣であった大夫房覚明は、義仲の三男義重を36人の家臣団で守り、広島県御調郡向島町へうつり住んだといいます。この八幡宮のほか、木曽明神や三十六苗荒神など、ゆかりの神がまつられ、木曽一族の再起を願ったのだと伝えられています。