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嵐山町web博物誌・第5巻「嵐山町の中世」

3.義仲の生涯

源平の激しい戦いの中で、三一年の短い生涯を送った木曽義仲。その波瀾に満ちた生涯を知ることによって、日本における中世のあけぼのをはっきりと理解することができるでしょう。

波瀾(はらん)に満ちた生涯

 源氏の正しい血を引く駒王丸を、中原兼遠(なかはらかねとお)は木曽で大切に育てました。駒王丸は武術にいそしみ、十三歳の春に元服して木曽次郎義仲と名乗ることになります。
 そして1180(治承4)年、義仲は木曽で平家追討の兵を挙げました。それを皮切りに、1181(養和元)年に信濃国(長野県)横田河原の戦いで大勝、1183(寿永2)年には越中国(富山県)倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、越前国(石川県)篠原の戦いで平家の大軍に連勝し、京都から平家を追い出します。京都に上ると朝廷から朝日将軍の称号を賜り、征夷大将軍にも任じられるなど、武将として最高の栄誉を勝ち得たのです。しかし、宇治・瀬田(京都・近江)の戦いで源範頼・義経軍に破れ、近江国(滋賀県)粟津において非業の最期をとげ、三十一歳の短くも激しい生涯を終えました。

源氏系図
源氏系図|画像
旗挙八幡宮
旗挙八幡宮|写真 (日義村提供)
木曽義仲館跡の西どなりに位置しています。義仲が旗挙げをしたときに、この境内で戦勝祈願をしたことから旗挙八幡宮と呼ばれています。拝殿脇には樹齢千年といわれるケヤキの巨木があり、遠い歴史を偲ばせています。
木曽義仲公墓所
木曽義仲公墓所|写真 (トキワ印刷(株)提供)
長野県木曽郡日義村徳音寺にあります。右には母小枝御前と今井四郎、左には愛妻巴御前と樋口兼光の墓が並んでいます。
木曽義仲騎馬像
木曽義仲騎馬像|写真
(護国八幡宮提供)
富山県小矢部市護国八幡宮(埴生〈はにゅう〉八幡宮)にあります。騎馬にまたがり、手綱を引く義仲の勇ましい姿をあらわした銅像です。
義仲と覚明図
義仲と覚明図|写真 (富山県小矢部市護国八幡宮提供)
木曽義仲年表
木曽義仲年表|画像

義仲旗挙げ 長野県木曽郡日義村(ひよしむら)

 木曽へ逃がされた駒王丸は、中原兼遠の元で育まれ成長していきます。十三歳を迎えた春に元服し、名を木曽次郎義仲と改め、新しい館(現日義村宮ノ越)に移りました。母小枝御前は、その二年後の秋に病で亡くなります。
 二十六歳になった1180(治承〈じしょう〉4)年、以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨(りょうじ)を得ると、義仲はついに挙兵します。宮ノ原の館に集まった兵は約一千騎でした。旗挙八幡宮で戦勝祈願をした義仲は、木曽から佐久へ入り信濃各地の武将を集めて兵力を増強していきます。そして横田河原の合戦において、約六万の越後の城太郎助職(じょうたろうすけもと)の軍に大勝すると、義仲の名は全国へと鳴り響いたのです。
義仲の旗揚げイメージ|イラスト
義仲の旗揚げイメージイラスト(画 田畑修)

義仲館
義仲館|写真 (日義村提供)
JR中央西線宮ノ越駅から北へ徒歩約10分の場所にあります。平成4年、ふるさと創生事業により作られた義仲のガイダンス施設です。義仲の関連資料を示しながら義仲の生涯を展示し、日義村における関連史跡を案内しています。同館の裏には、義仲の菩提寺である徳音寺があります。
許六の碑
許六の碑|写真 (トキワ印刷(株)提供)
日義村巴淵(ともえぶち)にある句碑で「山吹も巴もいでて田うへ哉」と刻まれています。森川許六(もりかわきょろく)は、江戸時代前期に活躍した俳人で、師芭蕉と同じく義仲を愛した句を詠んでいます。
林昌寺
林昌寺|写真 (トキワ印刷(株)提供)
義仲を育てた中原兼遠は義仲が挙兵した後に仏門に入り、この寺を建立したと伝えています。
徳音寺
徳音寺|写真 (トキワ印刷(株)提供)
義仲館の奥の山際に所在しています。義仲が母小枝御前を葬った寺で、以後一族の菩提寺としました。『徳恩寺縁起』によると、大夫房覚明(たいふぼうかくめい)がもともと山吹山のふもとにあった柏原寺を現在の場所に移し、1184(寿永3)年、日照山徳音寺と改称したと伝えています。境内の墓地には、義仲公墓所があります。
義仲生涯マップ(1)
義仲生涯マップ(1)

倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い

 横田河原の戦いで勝利を得た義仲は、北陸路から京都をめざして攻め上りました。そして1183(寿永2)年5月、富山県と石川県境にある倶利伽羅峠において、一〇万の平家軍と激戦を繰り広げます。義仲の軍の、二倍にもあたる兵力でした。
 ここで義仲は、軍略家としての才能を発揮することになります。『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』によると大軍を破るため、牛四・五百頭を集めその角に松明(たいまつ)を結びつけて、夜になると松明に火をつけた牛を一斉に平家軍の中に追い込んだのです。驚いた平家軍は刀や弓を捨てて敗走し、次々に倶利伽羅峠の谷の中へ落ちていきました。これが「火牛の計(かぎゅうのけい)」として戦史に名を残した、倶利伽羅峠の戦いです。
倶利伽羅峠陣取図倶利伽羅峠陣取図|画像

横田河原古戦場跡
横田河原古戦場跡|写真 長野市の郊外、千曲川沿いの横田地区。二千騎の義仲軍が、六万余騎の越後城氏が率いる平家軍を打ち破ったことで有名な横田河原の戦いの跡です。
木曽義仲願文
木曽義仲願文|写真
(富山県小矢部市護国八幡宮提供)
倶利伽羅峠の戦いを前に義仲は、戦勝祈願のための願文を軍師覚明(かくめい)に起草させ埴生(はにゅう)八幡宮へ奉納しました。
倶利伽羅峠合戦の図
倶利伽羅峠合戦の図|写真
(石川県河北郡津幡町倶利伽羅神社蔵)
牛の角に松明を結び付け平家の陣中へ突入させた火牛の戦法を描いています。

篠原の戦い

 倶利伽羅峠の戦いで戦史に残る勝利をおさめた義仲は、勢いに乗って平家軍を追走していきます。越前国(石川県)篠原において、平維盛(これもり)が率いる軍と戦い再び勝利を収めました。
 この篠原の戦いでは、逃げる平家の中にあって一騎踏みとどまり、手塚太郎光盛(てづかたろうみつもり)と戦い討ち死にした武将がいました。その武将こそが、かつて駒王丸と呼ばれた義仲を木曽へ逃がしてくれた命の恩人、斎藤別当実盛だったのです。白髪を黒く染めていたためすぐに実盛とわかりませんでしたが、髪を洗うと白髪が現れました。義仲は、命の恩人を敵として討たねばならない戦乱の無情を嘆いたと伝えられています。

義仲進軍ルートマップ
義仲進軍ルートマップ|画像
義仲生涯マップ(2)
義仲生涯マップ(2)
篠原古戦場跡と実盛塚
篠原古戦場跡と実盛塚|写真 (加賀市提供)
幼い駒王丸を大蔵の戦いの後、木曽へ逃した命の恩人である斎藤実盛は、篠原の戦いで討ち死にしました。加賀市の篠原古戦場跡には、実盛の首を洗ったという首洗池と実盛塚があります。
倶利伽羅峠
倶利伽羅峠|写真 (小矢部市提供)
富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町の境にある峠です。現在は、倶利伽羅県定公園の源平ラインとして整備されています。義仲が、火牛の計をもって平家の大軍を壊滅させた、倶利伽羅峠の戦いの地として有名です。
芭蕉句碑
芭蕉句碑|写真 (小矢部市提供)
小矢部市の倶利伽羅峠古戦場跡に建てられた句碑です。松尾芭蕉は義仲を偲び「義仲の寝覚めの山か月悲し」と詠みました。
護国八幡宮(埴生八幡宮)
護国八幡宮|写真 (小矢部市提供)
倶利伽羅峠のある砺波山のふもとにあり、義仲が戦勝祈願をしたと伝えられています。以来、弓矢の神として戦国時代から江戸時代を通じて多くの武将の信仰を集めました。

朝日将軍

 せまり来る義仲軍五万の軍勢におびえた平家一門は、幼い安徳天皇を奉じ、皇室の象徴である三種の神器とともに京都を離れ西海へと逃れていきます。1183(寿永2)年のことでした。間もなく京都に入った義仲は、後白河法皇に拝謁(はいえつ)します。平家追討の功績によって朝日将軍の称号を贈られ、改めて京都の護りを命じられるなど、義仲にとって最も輝かしい時を迎えたのです。
 しかし、義仲の勢いに恐れを抱いた老獪(ろうかい)な政治家である後白河法皇はしだいに義仲を遠ざけるようになります。同じ年の11月、法皇は軍勢を集めて法住寺にたてこもり、義仲軍との衝突という決定的な対立が起こりました。翌1184(元暦元)年、義仲は武門の最高位である征夷大将軍に任じられますが、すでにその時、法皇から鎌倉の源頼朝に向けて義仲追討の命が出されていたのです。

義仲生涯マップ(3)
義仲生涯マップ(3)|画像
後白河法皇
法皇として朝廷の最高実力者であり、義仲へ征夷大将軍の位を任じますが、同時に頼朝へは義仲追討を命じるなど、武家同志の対立をたくみに陰からあやつった人物です。
猫間中納言
『平家物語絵巻』(岡山県岡山市林原美術館蔵)
京都へ入った義仲軍の勢いに警戒心を抱いた後白河法皇は、義仲軍兵士の一部に粗暴な行動があったのをとがめ猫間中納言光隆を使者として義仲に部下の行状の粛正を求めました。
京都御所
京都御所|写真 /京都市上京区(京都市提供)
平家軍を破り京へ入った義仲はここで後白河法皇に謁見し、あらためて「平家を討て」と命じられました。
義仲寺
義仲寺|写真 (義仲寺提供)
滋賀県大津市に所在し、東海道本線大津駅下車、徒歩15分の場所にあります。義仲は元暦元年粟津ケ原で討ち死にしましたが、義仲寺には宝篋印塔の義仲の墓と、巴塚があります。後世、義仲を愛したという松尾芭蕉の墓があることでも知られています。

義仲の最期(さいご)

 義仲追討の命を受けた頼朝は、源範頼・義経を大将とする六万騎の大軍を京都へ派遣します。一方義仲軍は、西国へ逃れた平家軍と東からせまり来る頼朝の圧力などによって兵力を分散せざるをえず、窮地に追い込まれていました。
 今井兼平が八〇〇騎、山田次郎が五〇〇騎を率いて宇治川の瀬田と宇治橋方面を守らせ懸命に戦います。しかし範頼・義経の大軍をくい止められるはずもありません。こうして、義仲は兼平ら数人を従えて滋賀県粟津ケ原まで逃れますが、そこで義仲は大軍を防ぎきれず討ち取られてしまいます。悲劇の武将、木曽義仲三十一歳の無念の最期でした。幼い頃から木曽でともに育った今井兼平も、この時自害したと伝えられています。

義仲の最期
『平家物語絵巻』(林原美術館蔵)
今井四郎兼平は主君義仲を逃がしてただ一騎敵軍へ突入しますが、義仲は深田へ馬を乗り入れてしまい身動きがとれなくなってしまったところを敵の矢に射られてしまいます。
義仲墓
義仲墓|写真 墓は宝篋印塔。義仲寺に所在します。
巴塚
巴塚|写真 墓は供養塔。義仲寺に所在します。
今井四郎兼平墓
今井四郎兼平墓|写真 東海道線石山駅近くに位置しています。子どもの頃から義仲とともに育った今井兼平は、義仲を木曽で育てた中原兼遠の子であり、巴御前の兄にあたります。義仲が討たれたあとを追って、刀を口にくわえて馬から飛び下り壮絶な最期を遂げたといわれています。(『平家物語』)