嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
3.弥生から古墳へ
弥生時代の終焉
「クニ」へと向う模索の道
稲作文化が関東地方に至るまでの間に、西日本では小さなムラから大きなムラへ、さらにより大きなムラの連合体へと、揺れ動きながら社会を変革させていきました。
そして嵐山町周辺でも新しい文化がようやく馴染もうとしていたころ、近畿地方で新たな動きが起きました。いくつもの連合体の王たちの上に立つ「大王」の出現、すなわちヤマト王権の誕生です。それまで地域のまとまりである連合体の群れる島々だった日本は、政治的な意図で一つに統合する「クニ」へと発展する道を歩み始めました。
大王はその権力の象徴として、巨大な墓を築造しました。これが古墳です。弥生時代は、日本という国家が成立する過程の、模索の期間だったといえるかもしれません。
- 行司免遺跡の方形周溝墓群
- 行司免遺跡では10基の方形周溝墓が検出されました。出土した土器から、この墓が造られたのは弥生時代の終わりから古墳時代の初頭にかけてだったことがわかりました。
- 大形の壺(行司免遺跡7号方形周溝墓出土)
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周溝内から出土した土器はすべて底に穴があけられています。確かな意味は分かりませんが、葬送の儀式を終えて墓に供えられた土器は、日常の器とは区別されたものと思われます。
土器を見ると、口の周辺には縄文、頸から肩にかけては櫛描き文が施されています。また、口の内側と胴部には帯状に朱が塗られています。 - 鉄剣と銅釧(どうくしろ)及び出土状態(観音寺遺跡4号方形周溝墓出土、東松山市教育委員会提供)
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一辺18mの規模を有する大形の方形周溝簿の主体部(遺体を埋葬する穴)から鉄製の短剣(長さ29.2cm)と銅の釧(腕輪、直径6cm)4点が出土しました。弥生時代も末期になると、貴重品である副葬品とともに、ひときわ大きな墓に埋葬される首長が現れます。