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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.嵐山町の弥生文化

五百年の空白を経て

嵐山町の遺跡

 嵐山町には、紀元3世紀に至ってついに弥生文化が到来しました。北九州に稲作文化が根づいて以来、実に500年以上が経過したことになります。その間、人々はどうしていたかというと、縄文時代の終末期の細々とした暮らしが続いていましたが、やがてその痕跡も途絶え、おそらく数百年は人の踏み込まない地域となっていたようです。
 その地に再び人が立ち戻ってきたのは、丘陵特有の地形である、清水の流れ出る幾筋もの小さな谷が水田に適していたからです。隣接する東松山市、滑川町などからムラは徐々に増え始め、嵐山町にも及んだわけです。

比企地方の弥生時代遺跡分布図
比企地方の弥生時代遺跡分布図 中小河川に面した丘陵や台地の縁辺部に立地し、南北比企丘陵や松山台地の東半に集中する傾向が見えます。今のところ西部の山間地域には遺跡が発見されていません。

大野田西遺跡(県立埋蔵文化財センター提供) 大字勝田の通称長沼の谷を見降ろす北向きの斜面に22軒の住居跡が見つかりました。調査区外にもたくさんの住居跡が存在します。重なったものや近接した住居跡が存在することから、一時期に存在したのは10軒以下だと思われます。
大野田西遺跡|写真