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嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」

1.東日本の弥生文化

土器と水田の分布図
遠賀川(おんががわ)式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図 北九州で稲作を始めた人々は、「遠賀川式土器」を生み出しました。この土器は西日本全域に分布しますが、この系統の土器は東日本の本州全域にも拡がり、各地に水田稲作をもたらせました。埼玉県では、熊谷市北島遺跡で水田跡が確認されています。

稲作関東へ

 稲作文化は、しばしば「急速に伝播(でんぱ)した」と表現されます。確かに、長い歴史の中では瞬く間かもしれません。けれども実際には、新しい文化が関東地方に到達するまでに200年もかかりました。
 そして埼玉県でも、紀元前一世紀ころからようやく水田をもつムラが現れます。湿地帯を利用し、用水路を整備した本格的な水田です。水田作りの条件に恵まれない地域では、畑作が盛んに行なわれていたようです。畑作農耕にもなんらかの技術革新がもたらされたのでしょう。そのような遺跡からは、畑を耕すのに使われたと見られる大型の石鍬が数多く出土します。
 東日本の弥生土器の特徴は、かつての縄文土器のような縄目や細かい飾り文様が施されていることです。有益な新情報は積極的に取り込みながらも、古き伝統にもこだわる、人々の暮らしぶりの一端を覗かせています。

遠賀川式土器(唐子・鍵遺跡出土、田原本町教育委員会、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供)
遠賀川式土器|写真 弥生時代前期の代表的な土器型式です。壺、甕、鉢、高坏などの器種があります。
堰(せき)跡(熊谷市北島遺跡、県立埋蔵文化財センター提供)
堰跡|写真 人工の河川に木製の骨組みで補強した堰を構築しています。堰の規模は、長さ7m・高さ1m以上を測ります。計画的で完成された稲作が行われていました。時期は、中期(1世紀)です。
本格的な弥生集落(池上遺跡、行田市立博物館提供)
本格的な弥生集落|写真
熊谷市池上遺跡は、関東地方に初めて出現した本格的な弥生集落です。集落を取り囲む環壕を備え、また「大陸系磨製石器」を有しています。池上ムラの住人は、土器の特徴から地元民であることがわかります。
高床式倉庫(静岡市登呂〈とろ〉遺跡)
高床式倉庫|写真 高床式倉庫は、穀物を貯蔵するための建物で、稲は穂首刈りされたまま蓄えられていました。また鼠が入り込めないように「鼠返し」という工夫が凝らしてあります。梯子は、丸太材や割材を削りだしたものです。
復元された竪穴住居(静岡市登呂遺跡、国指定特別史跡)
復元された竪穴住居|写真 弥生時代の集落遺跡の本格的な発掘調査の先駆けとなった登呂遺跡では、竪穴住居跡や高床式倉庫跡の他矢板を並べて畦畔を築いた水田跡も発見され、それらが復元整備されています。
復元された弥生時代の集落(横浜市大塚遺跡、国指定史跡)
復元された弥生時代の集落|写真 次の写真の環壕と柵列に囲まれた集落には、竪穴住居7棟、高床式倉庫1棟が復元されています。「環壕」は中に水を張らない、ぐるりと一周する堀の意味です。
復元整備された環壕と柵(横浜市大塚遺跡、国指定史跡)
復元整備された環壕と柵|写真 集落を壕が取り囲み、その外側を土手と木柵が巡ります。
内陸部の環壕(かんごう)集落(美里町神明ヶ谷遺跡、県立文書館提供)
内陸部の環壕集落|写真 環壕は、外敵からの防御を目的として設けられたといわれていますが、関東地方では武器の出土は稀で、後期には次第に姿を消します。必ずしも戦闘を目的としたものではなかったようです。