嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
2.関東の弥生文化
関東地方のムラ
新しい文化が到来しても、関東では西日本のような急激な社会の変動は起きなかったようです。ムラムラが対立と併合の曲折を経ながら大きな共同体へと発展したという変化です。関東には戦いの防御施設を備えたムラはほとんどなく、争いの決定的な証拠も見つかりません。
それでも緩やかな地域の分化は始まりました。まずは大きく3つの地域に分かれました。地域色は、土器に施される文様の違いに鮮明に表れています。さらに100年ほど後になって、ちょうど3地域の交点のところに、新たな地域が登場しました。嵐山町は、吉ケ谷式と呼ばれる特徴ある土器を持つこの地域に含まれています。もとの3地域もさらにいくつかの小区域に分かれ、それぞれが独自色を打ち出しています。同じ文様の土器を作り、共有することが地域の強い絆になっていたようです。
- 中期の土器分布圏(埼玉県立博物館1994より作成)
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はじめ関東地方は大きく3つの分布圏に分かれました。隣接する東海地方、東北南部、甲信地方の影響を受けながら成立しました。地域間に対立はなく、緩やかな分立です。 - 後期の土器分布圏(埼玉県立博物館1994より作成)
- 三大分布圏は、後期になっても大きな変化はありませんが、一つの圏内でいくつかの小区域が生まれ、それぞれの地域差が鮮明になります。また、ちょうど中央の地域に新たな土器の分布圏ができました。
- 南東北系縄目文様の土器(原田遺跡群出土、土浦市教育委員会提供)
- 関東北東部の土器です。撚り方を工夫した縄でつけた縄文が特徴で、その上に渦巻などの文様を描きます。後期になると渦巻文は消え、縄文のみの土器群になりました。
- 東海系縄目文様土器(大宮公園内遺跡出土、埼玉県立博物館提供)
- 関東南部に分布します。土器の口から肩にかけて、非常に細かい縄文が帯状にほどこされています。
- 櫛描文(くしがきもん)土器(岩鼻遺跡出土、東松山市教育委員会蔵)
- 関東北西部に分布します。毛足の太くて硬い刷毛で撫でつけたような、無数の筋目が地文として全面にほどこされ、土器の口から頚の周辺にかけて櫛歯状の工具で文様を描いています。
- 吉ヶ谷(よしがやつ)式土器(吉ヶ谷遺跡出土、東松山市教育委員会蔵)
- 後期になって登場する後発の土器群です。目の粗い縄文のみが施されます。土器を作るときの粘土の継目をそのまま残しているのが特徴で、何本もの横縞模様になっています。
コラム:「魏志倭人伝」が伝える弥生人の習俗
- 『三国志・魏志』東夷伝(とういでん)(国立公文書館提供)
- 土器や銅鐸に描かれた弥生絵画
- 弥生時代の絵画には、顔の入れ墨、シャーマン、狩猟、漁撈、農作業、船、建物などがあります。
- 唐子・鍵遺跡出土の土器絵画と復元楼閣(奈良県田原本町)
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土器に描かれていた建物の絵画をもとに復元された二層の楼閣です。宗教的な性格をもつ建物であったと考えられています。
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は、中国の三国時代に著された歴史書の中の日本について記した一つの章です。正しくは『三国史』「魏書」東夷伝の倭人条といいます。実際の見聞を基にしていますので、弥生時代の生身の人々の姿が写されている、大変貴重な資料といえます。その中に倭人の身なりや風俗に関する記述があります。
男は皆、顔にクニや身分で異なる入れ墨をしている。体には赤い色を塗っている。髪型は、男性は簡単に束ねただけ、女性は結い上げている。衣服は、布を体に巻きつけたり、中央に穴を開けた布を頭からかぶって腰紐で留めるだけ(貫頭衣〈かんとうい〉)といったものだ。
これらの記述は、人面のついた壷や土器に刻まれた絵画、髪留め用の飾り櫛などによってもおおよそ裏付けられます。皆素足だともありますが、近年サンダルのような木製の履物が発見されています。遺跡からは、貝や石で作った腕輪やガラスのビーズと色石をつづった首飾り、ヘア・バンドや髪飾りなど、色とりどりのアクセサリーが出土しますが、倭人が着飾っていたという記載はありません。日常生活については、
倭の地の気候は温暖で、夏も冬も生野菜を食べている。木や竹の食器を使い、手づかみである。あるクニでは海岸沿いに家を作り、皆が潜って魚やアワビを捕っている。家の中は間仕切で個室をしつらえている。クニごとに市場があり、監督者もいて物物交換をしている。死者が出ると、十数日の「もがり」をする。喪主は声を上げて泣き、他の者は酒を飲み、歌い踊る。この期間は肉食をしない。埋葬の後は、我が国の「みそぎ」のように家族が水浴びに行く。
などと記されています。また倭人の秩序と礼節を重んじる、平和な暮らしぶりについては少し驚いたようです。
人々は皆長命で、上下関係がはっきりしている。道で身分の高い者に出会うと、下々の者は端の草むらに後ずさってよける。話を聞くときには蹲(うずくま)り、両手をついて敬いの姿勢をとる。目上の者にはまたそれだけの威厳がある。しかし、集会のときなどでは老若男女の差別はない。犯罪がなく、争い事も少ない。
「倭人伝」の原文は、わずか原稿用紙5枚ほどです。女王卑弥呼(ひみこ)のくだりが最も有名ですが、弥生人の暮らしも見事に捉え、簡潔に記されています。