嵐山町web博物誌・第3巻「嵐山ジオロジア」
2.段丘地形の生い立ち
嵐山町とその周辺では、河岸段丘(段丘地形)が発達しています。
河岸段丘とは、かつての河川が地面を削ってつくった階段状の地形です。
都幾川と市野川の間の菅谷台地、都幾川右岸(南側)の大根将地域、小川町中爪〜志賀へと続く市野川上流流域に段丘面があります。
ここでは、同年代の段丘面(段丘礫層)ごとに(表の同じ色で示した礫層ごとに)、その生い立ちを紹介します。
笛吹峠面の時代
この地域で最も古い段丘面堆積物は約50万年前の笛吹峠礫層で、この頃から陸地化したと思われます。
比企丘陵もこの頃からゆるやかな隆起をして丘陵化していったと考えられます。
この年代の地層はあまり残されていないので、確かなことが分かっていません。
菅谷1面の時代
菅谷台地の一番高い面ができた時代で、現在の都幾川や市野川がこの高さを流れていたことが分かります。この面は、将軍沢面や市野川沿いの八和田1面とも同じ時代の面で、比企丘陵から岩殿丘陵にかけて、当時広い平坦面があったことがわかります。
嵐山町志賀より上流の市野川沿いには八和田1面があり、この面は最上流部まで追いかけると、荒川流域の江南面につながってしまいます。
このことから、菅谷1面の時代には、菅谷台地〜江南面が同じ地形面になっていたことが推定できます。
また、その北東部にある比企丘陵は、段丘面が見られないことから、すでにこの時代には丘陵化が進んでいたものと思われます。
- 市野川最上部(寄居町牟礼〈むれい〉)
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画面左から右へ、道の手前を市野川が流れ、画面奧の集落は江南面にあります。
市野川から江南面までの標高差が少ないことが写真からも分かります。
菅谷面の時代には、昔の荒川が江南面を越えて現在の市野川あたりを流れていた可能性もあります。
菅谷2面の時代
菅谷1面より1段低い段丘面ですが、その高低差はわずかです。
武蔵嵐山駅あたりの面で、東松山まで至る広い面をつくっています。
菅谷3面の時代
菅谷3面は菅谷館の本郭や国立女性教育会館の面をつくっています。都幾川の南は、植木山地区がある植木山面になります。市野川沿は志賀小学校などが建っている八和田1'面です。
これらの面は、現在小高い地形をつくっています。かつては、その地形を活かして桑畑などに使われていました。
菅谷4面の時代
菅谷4面は、菅谷館の南郭の面をつくっています。大蔵1面はやや高い地形をしており、大蔵地区の集落があります。八和田2面もやや高い地形で、県道菅谷寄居線が走っています。
いずれの面にも、わずかにローム層がのっています。
菅谷5面の時代
最終氷期が終わり、暖かくなってきた頃から、これらの面が形成され、その後も都幾川や市野川は河床を浸食して現在の高さになりました。これらの面上にローム層はのっていません。
この面は低地のため、水田として利用されてきました。