嵐山町web博物誌・第4巻「嵐山町の原始・古代」
2.西日本の弥生文化
金属の道具
米とともに日本に伝わったのが金属の道具類です。鉄は、農耕具など実用品に用いられました。薄い延べ板状の原材料が持ち込まれ、これを鍬や鋤の刃に加工しました。旧来の石製、木製の道具との違いは歴然で、農作業の効率がよくなりました。また、鋭い刃先で細かい作業を行なえるようになり、椀などの容器を作ったり、板材を加工する木工の技術が発達した点も見逃せません。ただし大変な希少品ですから、石製の道具も依然として多く使われています。
青銅器(せいどうき)は、大陸で剣や槍などの武器に使われましたが、日本では大きくて非実用的な形に作り変えらていきます。権力や権威を象徴する品々として、儀式などに用いられました。
- 鉄斧(てっぷ)(唐子・鍵遺跡出土、田原本町教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供)
- 石の道具(和泉市池上曽根遺跡出土、大阪府立弥生文化博物館提供)
- 上は斧、中は石包丁、下は錐とナイフ。左上長さ11.5cm
- 木製の農具(和泉市池上曽根遺跡出土、大阪府立弥生文化博物館提供)
- 鋤と杵(唐子・鍵遺跡出土、田原本町教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供)
- 銅鐸(滋賀県野洲町小篠原出土、重要文化財、画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/)
- もともとは小さな「かね」でしたが、巨大で装飾を凝らした日本独自の形に発展した儀式の道具です。
分かれて百余国
土地を巡る争いの始まり
稲作文化が浸透すると、食糧事情が安定し、人口が増えました。ムラの数も増えました。ところが、各地に水田が広がるようになって、新たな問題が生じてきました。稲の収穫を増やす最大の条件は、水田の水の便と質の良い土地選びです。自分達の財産である水田を巡って、ムラ同士の対立が始まったのでした。対立は時として、武力による激しい戦いともなりました。西日本の弥生時代の遺跡からは、苛烈な戦死を遂げた者の墓が発見されます。
日本に関する最古の文献『漢書(かんじょ)』には「楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり、分かれて百余国・・・」と紀元前一世紀ころの様子が紹介されています。「国」は規模の大きなムラを示していると見られます。さらに三百年ほど後の情勢を『魏書(ぎしょ)』は「かつて百以上の国があり、三十の国が連合して一人の女王を立てるまでは長く争いが続いた」と記しています。
- 復元された物見櫓(ものみやぐら)と柵列 (佐賀県吉野ヶ里遺跡、国指定特別史跡)
- 「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の「居所は宮室・楼観・城柵厳かに設け、常に人有りて兵を持して守衛す」と記されています。この「楼観」が物見櫓であり、激戦の舞台となったものと思われます。
- 甕棺(かめかん)に埋葬された首のない人骨(吉野ヶ里遺跡、佐賀県教育委員会提供)
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首のない遺体の埋葬例です。また首だけを埋葬したものや鏃や石剣の突き刺さった遺体もあります。弥生時代は、想像以上に戦いの時代だったのです。 - 墳丘墓(ふんきゅうぼ)から出土した銅剣(吉野ヶ里遺跡、佐賀県教育委員会提供)
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銅剣は武器としても用いられましたが、多くは権威の象徴として墓に副葬されました。激しい戦いを物語るかのように、なかには先端の折れたものもありました。 - 戦死者とみられる人骨の分布(大阪府立弥生文化博物館2001より)
- 中国の史書によれば、倭国内では大きな戦乱が長い間続いていたが、ようやく一人の女子(卑弥呼)を王に立てておさまった。と記しています。その時期は2世紀の後半ということです。戦死者と見られる弥生時代の人骨は北九州では紀元前2世紀以前のものが発見されます。戦渦は次第に北九州から近畿地方へと波及していったことがわかります。