第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
川島の今昔[権田重良]
権田重良
島負ニの北側を東に入り月輪西荒井(にしあらい)境までに川島の片側宿(かたがわじゅく)と呼ぶ十数戸の家が並び屋号に篭屋、経木屋(ひげや)、油屋、車屋、荒物屋、下駄屋等の家があったと伝えられているが、屋号に該当する家は現在の川島には見当たらない。入口の土手の上に三体の石造物が建立されている。右の灯籠には金毘羅大権現とあり、文化十二年(1815)建立、願主武州比企郡川嶌村上下講中、世話人島武治郎とあり、島負ニの先祖と思われる。中の馬頭観音像は安永二癸巳天(1774)十月十九日、武州比企郡川嶋村念佛講善男女人、施主上下邑中とある。左の青面金剛の庚申塔には享保十七壬子(1732)十一月吉祥日、下川島村同行二十人とある。『比企丘陵 風土と文化』所載の権田恒治さんの文に、川島片側宿入口の石仏群は広野村の飛地と言われた川島の村としての存在と当時の戸数及び人数を知る貴重な遺産と記してある。
下川島地内の山林には、隣接する滑川町月輪矢尻地区と共に古墳が数多く残っており、屋田古墳群と呼ばれている。上川島の花見堂古墳群とともに、古き時代よりこの川島の地に人が生活していたことが伺い知られるのである。