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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

川島の今昔[権田重良]

川島の今昔(その2)地番

                   権田重良

 江戸時代には現在の大字が村として存在しており、川島は太郎丸村を間に挟んだ、広野村の飛地であった。明治になって菅谷村が誕生するまでその状態が続き、地租改正時には、川島の土地には広野1470番〜2265番の地番がふられた。広野1469番の土地は広野村大下(おおしも)地区にある。明治22年(1889)、菅谷村、七郷村ができた時、川島は菅谷村大字志賀に編入され、大字志賀元広野と称されたが、昭和16年(1941)9月、大字志賀から分離・独立して大字川島が誕生、地名が復活した。しかし、地番は従来の番号を引継ぎ、川島1470番〜2265番である。
 広野と川島の間にある太郎丸村は水房村の分郷と言われており、『新編武蔵風土記稿』には、「古ハ水房村【現在は滑川町大字水房】ノ内ナリシガ、寛文(かんぶん)五年【1665】検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ」とある。水房庄(みずふさしょう)の属した村は、『新編武蔵風土記稿』では広野村・水房村枝郷太郎丸・福田村・伊子村・水房村・水房村枝郷中尾・野田村・岡郷・小江川村の九か村、現在の嵐山町・滑川町・東松山市・江南町にある村々であった。志賀の市野川沿いに莪田分の地名がある。中尾村の慶徳寺のある地名は加田であるがかかわりはないのだろうか。

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