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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

十二、文政年間古里村再検地絵図面に愢う

 わが家に分青年間の古里村再検地図面のあることを知ったのは。幸蔵没の昭和九年(1934)より数年前のことであった。ようやく之を古掛軸箱より探り当て、近世文書などと共に保管している。
 その絵図面の概要を記し。篤志家の参考に供したいと思う。
 絵図面の東南余白に「文政十二年己巳(つちのとみ)(1829)八月 郷中検地相改絵図面仕立致候」とあり、「寺堂共軒数合八十六軒、白…田、黄…畑、青…水、赤…道、黒…山、同…荒畑山」と記されている。
 又西南部余白には、当時の知行所、領主名名主名が次の通り書き連ねられている。
  領主 有賀滋之丞  名主 仙蔵
     森本惣兵衛     茂右衛門
     長井五衛門     伴七
     村内蔵郎      清右衛門
               伊右衛門
     市川伝八郎     徳次郎
     清水御領知     善蔵
     内田熊太郎     弥十郎
     権田三四郎     市兵衛
 右記のとおり当時の村内が八知行所に分轄にされていたことが知れる。尚図面西北部余白には、検地人足が次のように記してある。
  縄張 儀兵衛
  問尺 喜蔵 梅次郎
  磁石見 初太郎 久次郎
  目当持 宇平次 幸次郎 伝蔵 定次郎 磯次郎
 更にまた図面北東余白に、絵図師名が左記の如く記載されている。
  森本惣兵衛知行所
      絵図師 百姓代 藤右衛門
           補助 確蔵
  清水御領知
      絵図師 勇右衛門
 文政十二年(1829)は仁孝天皇(にんこうてんのう)の御宇、第十一代徳川家斉将軍の代で今より143年前である。この年江戸大火があり、また松平定信、近藤重蔵が死去した年である。
 戸数については「寺堂共軒数合八十六軒」とあるが、社寺数を差引いて民家戸数79戸。現在は左表のような状況で、この140年間の戸数増率はわずがに160パーセントに過ぎない。

組別  文政期  現在
内出上  17    24
馬内   18    28
内出下  14    20
尾根   30    54
社寺    7    4
計    86   130

 右戸数の内、尾根(おね)東部(駒込地区)が意外の発展ぶりを見せている。
 次に絵図面全体の彩色、写術等技術面は極めて幼稚で、外観は余り立派なものとは云えない。縮尺等も記入なく頗る大雑把なものであるが、参考となる面は村境に全面的に間数の記入があり、黒色の実線又は青色の水堀で区切らせている。また内面の人家、社寺等は主家、下家、土蔵、長屋門、屋敷内の森林等念入に記入されて、當時の各農家の盛衰の様が判然と知られる。
 更に各農家の今昔を思考すれば、文政年間(1818-1831)よりその大部分が現在に及んでいるが、十分の一強に当る11戸がその跡形を消失している。また当時の大家が破産して他地域に移動しているもの、現存するが当時の面影をひそめてしまったもの、当時の小百姓(小作層)が現在巨宅を構えて近隣の指導的立場となるもの等種々様々で、世の栄枯衰退の歴史の跡がつくづく察せられる。
 尚古里村東部駒込(こまごめ)地区は、その当時わずか2戸程度の未開拓地帯であったが、現在は15、16を有し、然も県道熊谷小川秩父線をはさんで、住宅地として将来益々発展するものと期待される。再びこの検地絵図面を眺めて思うことは、遺産文化財の一つとして重要視されている古墳群等の跡が指摘されていない点である。もっとも当時の世相としてはこの点を重要視する時代でなかったので、やむを得ぬことである。  (昭和四十五年二月記す)

安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月
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