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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

十、わが家の家系

 わが祖藤田右近太夫政重は、男衾郡藤田花園城主の一族である。始め城主藤田康邦の家臣として仕えていたが、天正九年(1581)九月鉢形城竣成するや城主北条氏邦に従属してこの城に移り、家老職を務めて城主を扶け武威を振いたるのみに止まらず、民治に最も意を用いたため領土は繁栄を極めたという。
 天正十七年(1589)秀吉諸大名に小田原出陣を命じ、翌十八年(1590)秀吉の大軍小田原を包囲して攻め立て、遂に落城して北条氏を平定するに至った。同年四月秀吉の軍は松山を抜いて鉢形に迫り、総大将前田筑前守を筆頭に上杉、毛利等その軍勢は三万余、城兵能く防戦したが衆寡敵せず、これまた落城を余儀なくせざるを得なかった。時に四月十五日。
 鉢形城落城となるや、多くの家臣らは浪人となり各地に四散した。わが祖藤田政重もまた浪人の身となり、翌天正十九年正月五日当古里村に落ち忍び土着したものである。
 第二代藤田助左衛門政勝以降代々男子を以て裔を嗣ぎ、十四代粂次郎に至り勤倹力行して産を固め、十五代金蔵は父の志を継ぎ治水事業に尽瘁して古沼を再興し、子孫のために住宅の移転新築を完成して中興の祖となり、十六代幸蔵(爲啓)を経て当主専一の現代に至る。天正十九年以降現在まで約三百八十年を経る当村旧家の一つで、初代政重より既に十七代を重ねている。
 当家はその祖藤田右近太夫政重(天岳瑞公居士)、二代助左衛門政勝(藤伝霊苗信士)より十一代(各代の法名判明す)を経、十四代粂次郎に至るまで藤田姓を有し、代々の通り名、助左衛門として代々百姓代を踏襲して来たと聞く。粂次郎に至り菩提所が同一箇所となったこと、同藩に属し安藤の宗家長左衛門が名主、当家粂次郎が百姓代にて親交の特に深かった関係上、これを縁故として藤田姓を廃止し、安藤家を上座に藤田家を従座に姓の合流をなし、爾後安藤姓を名乗り現在に至ったものである。

附 藤田右近太夫政重について

 わが家の祖藤田右近太夫政重は、花園城主藤田康邦(邦房)の一族にして男衾郡藤田村に住し長く康邦に仕へる。康邦逝去の後は氏邦と共に鉢形城に移り城主氏邦の重臣として仕へる。
 康邦の息女大福御前は、小田原城主氏康の三男氏邦を迎へて康邦の後嗣とす。康邦(邦房)逝去の後、氏邦は鉢形城を築き姓を北条と改む。その築城は天正九年(1581)九月なり。当時氏邦は男衾・幡羅・榛沢・大里・比企・横見・児玉・上州沼田の郷を併せ七拾八万石の領土を有し、北武・上州方面に武威をとどろかす。
 その後、豊臣秀吉は関八州の城を攻畧の策を講じ、小田原城を陥落しついで上杉、前田の軍勢を以て松山城を落し、鉢形城に迫り天正十八年(1590)四月遂に落城の悲運に遭ふ。氏邦は加賀金沢城主前田利家の客臣となり、家臣悉く四散するに至る。
 わが祖右近太夫政重(重政)が浪人となり古里村に落ち土着せしは翌天正十九年正月五日なり(記録より)。

【以下略】

安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月
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