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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

附 元村社兵執神社特殊神事

獅子舞細記

 昭和二十五年(1950)十月、七郷村教育委員会教育長就任の折、県文化財保護委員会宛報告した資料で、内容は左記【下記】のとおりである。

一、類別・名称 無形文化財 獅子舞(ササラ)
二、所在地 比企郡七郷村大字古里字中内出
  元村社兵執神社特殊神事として行う
三、管理者 兵執神社氏子総代 五名
  現在の代表者 大塚禎助
  前代表者 安藤寸介
四、後援団体と責任者
  後援団体 兵執神社崇神会
  演技責任者 大塚正市
五、行われる場所 兵執神社社頭
尚隔年十月廿六日、小川町大字奈良梨八和田神社(元諏訪神社)秋例祭に行う。
六、行われる機会 兵執神社秋例祭 十月十八日 十月十九日
  八和田神社秋例祭 十月廿六日
七、時期 十月十八日 足揃い、十九日 本場所
  午後三時開始 仝五時終了
  十月二十六日 八和田神社は隔年午後
八、芸能の演目
1.堂浄古根固 2.場均らし 3.穏平掛り 4.花掛り 5.女獅子隠し 6.かけ出し 7.神楽
九、芸能の次第
1.街道下り 2.通し神楽 3.棒使い 4.堂浄古根固 5.場均らし 6.穏平掛り 7.花掛り 8.女獅子隠し 9.駈け出し 10.神楽
十、歌詞、唱え詞等
1.堂浄古根固 舞妓の初まる当初の歌詞、これから始まることを知らせ、その場所を浄めかつ固めるものである。
○子供達ささらが見たくば、いたこうなあよ
 いたこの上には天狗びょうしよなあよ。
2.場均らし 獅子舞の中程にて唱となる。
○この宮は飛騨の工匠が建てたのか 楔一つで四方固むる
3.穏平掛り 舞技の中程で唱となる。
○廻れ車水車、遅く廻ると関の戸で迷ふよ。
4.花掛り 舞技の始めA 中程にB 終りにC
 A.天神様の梅の花、莟み盛りに曲を遊ばす。
 B.天竺天王まる三ヶ月の頭を揃ひて気を細やかに
 C.十七八の髪結ひ姿、見るに見られぬ、今のきれをはぎりを違いた。
5.女獅子隠し
○思ひもよらぬ朝霧が立つ、そこで女獅子がかくされたよな。
 女獅子花笠に隠れた時に唱う。
○風が霞を吹き晴らし、そこで女獅子が肩並べた。
 女獅子を出した時に唱う。
○松山の松にからまる蔦の葉も、縁が尽きれば、ほろりほとほぐれる。
 方元と男獅子と和睦する場合の歌
6.駈け出し
○山雀があへとて里へ出て、ここのお庭に羽根を休ませる。
 獅子舞の中程で唱となる。
7.神楽
○雨が降りそで、黒雲が立つ、お暇申して、いざ帰うらんせ。
 最後の歌で、舞の最終に唱う。
十一、装飾用具等の概要
   竜頭獅 方元獅子 女獅子 男獅子
   中立用お面(道化) 一
   太鼓 三
   万燈 一
   笛 五
   樫長棒 四
   金棒 二
   花竺 四
   ササラ 四
   その他 襷、タッツケ外
十二、使用する楽器の概要
   主楽器 横笛、太鼓
   外 拍子木 ササラ ほら貝等
十三、芸能を行う人の構成
   拍子木兼歌うたい 一人
   棒使い 四人
   花竺 四人
   中立ち 一人
   獅子舞 三人
   笛吹 五人
   貝吹き 一人
   万燈掛り
   外に神官、氏子総代五人
十四、芸能を行う人の服装、持ち物
   拍子木兼歌うたい…袴着用、拍子木
   棒使い…袴襷八巻、六尺樫棒
   花笠っ子…袴 花笠 ササラ
   中立ち…立附袴 小花笠 面 わらじ 御幣
   獅子舞役…立附袴 わらじ 小太鼓 獅子頭 バチ
   笛吹き…袴 羽織 横笛
   貝吹き…袴 ほら貝
   露払い…立附袴 金棒
十五、芸能を行う人の資格
主役 ササラッ子は、農家の長男の中より選び、十二、三才から満二十才まで七、八年継続し、順次新人に引次ぐ。
棒使い 同じく農家の長男中から選び、十五六才から二十才まで継続する。
中立ち 女獅子役をした先輩中から選ぶ。
笛吹き 永年継続となり逐次新人も入れて交代する。
他は随時適任者に依頼して交代する。
十六、芸能開始前の行事
秋季例祭の奉納演技であるので、神官を中心とする例祭行事の終了を待って始める。したがって開始前は用具の状況を点検し、御神酒で身体を浄め、演技係の諸注意を受けて、社務所に待機している。例年午後三時ごろより開始する。
十七、芸能開始より終了後の行事
社務所前の演技一場所を終り、社前に向って街道下りの獅子舞に移り、社前では初庭二庭と二場所行って終了する。
終了後は拝殿において年番氏子総代に着用具を渡し、社務所に全員引上げる。そして晩さん会に入る例となっている。
拝殿では用具を整理し、総代立会いの元に上番から下番に引継ぎをする。
十八、芸能の由来
その起源は不詳であるが、一説には元禄の頃より始められたと古老から伝いられている。又新篇武蔵風土記稿に「宝永七年(1710)の棟札には兵執明神と書せり」とあることから考えれば、当年同社の大普請を完了したことが確定され、その改築祝いとして、当時各所で流行したササラ獅子舞に習って、大稽古を企画し収得して奉納したことが、同社獅子舞の始まりのようにも考えられる。宝永は徳川家宣将軍の頃で、元禄より約二十年後代である。
十九、他の芸能との関係
同村【七郷村】越畑八宮神社の獅子舞も最近復活し、毎年七月二十五日夏祭行事として執行されている。
なお吉田・鎌形・将軍沢等の獅子舞は、役者難のため先年より中絶するに至った。
昭和五十四年一月再記

安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月
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