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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

五、信越の領主 安藤山三郎の事

後日、安藤専一氏がこの原稿の手直しを行い、菅谷村報道195号に掲載されました。
ここでは、修正版である報道記事を掲載します。

町の今昔

信越の領主 安藤山三郎の事

              古里 安藤専一

    知行目録
一、六拾弐石
 越後傾城郡板倉郷未増村
一、廿石五斗
 信州更科郡須立村内
一、百拾七石五斗
 同郡須立村平林村内
 都合弐百石也
右宛所爲全て領地者也
 慶長廿年九月十一日
          忠輝
 安藤山三郎へ
 右【上】知行目録は大字古里安藤宗家の所蔵文書である。山三郎は当家第三代の当主となっている。
 慶長八年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、やがて江戸城の殿閣成って此処を本拠として幕府の第一歩が発足されるに至った。外交では朝鮮との国交回復し、オランダと通商成って平戸港に商館も設けられた。又スペインやイギリスとの通商も成立して、外交面は順調な歩度を進めていたが、内政は尚多事多端であった。即江戸大坂間の対立が今尚続き、就中慶応十九年(一六一四年)方広寺大仏鐘銘事件は、事の外その衝激【撃】が大であった。忠臣達の決死の接渉にもかかわらず両者の和解成らず、遂に同年大坂冬の陣、同二十年(1615)夏の陣の勅発となり、江戸軍勢は大挙西上して大坂城を攻め立て、さすがの堅城はついに落ちて、豊臣氏は滅亡に帰した。
 安藤山三郎は若くして才気ありまた血気に溢れ武人を志して家郷を出、越後に走り高田城主松平忠輝の家臣となった。たまたま慶長十九年大坂冬の陣、続いて夏の陣に参戦して武功あり、その賞として城主忠輝より信越の地に采邑都合弐百石を賜わった。その知行目録が当初掲示のもので今尚同家に保存されている。
 山三郎は長年信越の城主として高田城主松平忠輝の配下に属していたが、晩年職を退いて郷里武州比企郡古里村に戻り安藤家中興の祖を自負して、家政を整え名実共に大安藤の楚を築いた。また郷党の指導者として近隣の農民を善導治山治水事業にも手を延べて大いにその実績を挙げた。
 山三郎は古里村における古今を通じて真に剛気果断、篤実無比の偉丈夫であった。

『嵐山町報道』195号「町の今昔」 1969年(昭和44)6月25日
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