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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

四、重輪寺の大榧

後日、安藤専一氏がこの原稿の手直しを行い、菅谷村報道156号に掲載されました。
ここでは、修正版である報道記事を掲載します。

重輪寺の大榧 (かや)

 重輪寺は古里字神伝田に位置し、宗派は禅宗永平寺派に属する曹洞宗の寺院である。本尊は地蔵菩薩を安置している。
 新記*1によれば『元は重林寺と書せり曹洞宗上野国群馬郡白川村龍沢寺末、旧里山と号す。慶長年中の草創にて開山理山銀察は寛永十年(1633)十一月二十五日化す』云々と記している。又他書には慶長元年(1596)草創となっているので之を信ずれば今より三百六十八年前建立の古刹である。当寺は古里及び西古里に渡って約百六十の檀家を持っているが、以前は郷党の信仰深かった同村瀧泉寺天台の宗門に属していた。この天台を去って禅門に鞍替し新寺院建立に踏切った檀家の非常決意と開山銀察和尚の熱意とが相融合してこの改宗事業が難無く成し遂げられたものと思う。
 当寺は豊臣秀吉の晩年で秀吉が明使の無礼を怒り朝鮮に再出兵したいわゆる慶長の役(1597-1598)の頃で、家康が征夷大将軍(1603)となり江戸幕府を確立したのはその数年後のことである。
 重輪寺は草創以来数度の大火に見舞われて焼失の憂き目に会い、これがため過去帳外古書類一切を焼失しているので題名の榧樹(かやのき)との由来は確証を得られないが寺院の風除けとして植樹されたことは察知するに難しくない。古老の言によれば、『寺の風除けとして成長の早いこの榧数本を寺地の東南に植えたもので、植樹は草創後五六十年と古くから聞き及んでいる』ということである。この古老の言を一応信頼して年表を繰れば開山銀察和尚の晩年の植樹ということになり、寺が毎年の東南より襲う津波風に悩まされ之に備えるため、時の総代らと相計ってこの植樹対策が実現化されたものと考える。
 この榧樹は寺院東南部に位置して現在大小二本が各(おのおの)万朶*2を四方に拡げ巍然(ぎぜん)として寺前の大空を突き衆目を聚めている。
 調査によれば左記のとおりである。 
    樹高  約一八米(六十尺)
    目通り 約四米(一四尺)
    枝下  四米強(一五尺)
    樹令  約三百年
 以上大榧は近郷の名木であり、約三百年の郷土歴史を秘めるものとして、この文化財価値を大いに認め、又衆目を新たにして頂く意味をもってここに記したものである。
昭和三十九年十月記 村文化財保護委員会 安藤専一

*1:新記…新編武蔵風土記稿を指す。
*2:万朶(ばんだ)…多くの花の枝、多くの花。ここでは多くの枝の意。

『菅谷村報道』156号 1964年(昭和39)11月10日
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