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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

三、一夜堤・行燈堀の由来

 農民層の没落は幕藩領主の年貢増徴策による重税、商業資本の農村浸透による窮乏などが根本原因であると云われているが、また度々の天災地変と飢饉も大きな原因になったものと思う。
 古里北田耕地耕作者の総意により本題の行燈堀掘削普請が決行された頃は、数次にわたる大飢饉に見舞われた左記【下記】近世の三大飢饉の直後と推定される。数次の干天続きによる水不足が、農民の気持を極度に興奮させてこの普請に踏み切ったものと思う。
           記

享保の大飢饉 享保三年(一七三二年)で関西以西が特に著しかった。
天明の大飢饉 天明三年 — 七年(一七八三年 — 一七八七年)奥羽飢饉と称されたもの
天保の大飢饉 天保四年 — 八年(一八三三年 — 一八三七年)

 大飢饉の影響による農民の窮乏と分解は甚だしく、この頃全国各地に飢民蜂起・農民一揆が頗発した。
  安藤長左衛門は天保年間の古里村代表名主で、この行燈堀 普請の陣頭に立った人物である。
 この由来については、かつて『菅谷村報道』に登載したのでこれを次に掲載することとする。

安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月

銷夏*1二篇

一夜堤行灯堀の由来 (いちやどてあんどんぼりのゆらい)

文化財保護委員 安藤専一 
 近代化した欧州諸国が盛んに海外に進出して、立ち後れたアジヤの国々を植民地として支配したのは江戸幕府中期以降のことである。
 1776年(安永5年)独立宣言によって起ち上った米国も西欧の例にもれず東洋への大夢を抱いてさかんにアジヤの諸地域を掠めた。直接わが日本との関係が、時の幕府諸藩を狼狽させたのは、1853年(嘉永6年)で米国の提督ペリーが大統領の国書をもち四艘の軍艦を率いて浦賀に来航したいわゆる黒船事件である。
 幕府諸藩がこの外交問題すなわち鎖国か開国かの二派に分かれて国家の大事に錯綜された時代であったが、国内的には1783年の天明の飢饉があり、1834年(天保5年)は諸国の飢饉があり、続いて1836年には再び天保の大飢饉が襲って、諸国に百姓一揆すらひん発するありさまであった。

 題名の「一夜堤行灯堀由来事件」も幕末数度にわたる大飢饉に連なるもので旧古里村(ふるさとむら)と旧板井村(いたいむら)との長期にわたる水利争いの結果が生んだ遺跡なのである。
 この一夜堤行灯堀のできた当時の文書類等何ら手がかりもないが、天保の大飢饉の直後と推定され、今より約百二十年前の事件であったことは、古老その他識者の伝言から察知される。
 当時古里村の名主は安藤長左衛門で英智に長け諸事業推敲に手腕あり、しかも気力旺盛で時の実力者として近郷にその名を謳われた人物であった。古里村の大半は旗本有賀伊予守忠太郎の知行する領地で、当の長左衛門が名主を務め名主代は大塚籐左衛門(現大塚正市家)、百姓代は藤田助左衛門(現安藤専一家)が当っていた。
 1853年の黒船事件は前述の通り鎖国勤王派の武将たちが大狼狽し、有賀家も急遽各地より御用役を召集することとなった。このとき古里村より江戸召集を下命され六十日間の勤務に当たったのは名主長左衛門百姓代助左衛門(実名粂次郎)の二名であった。
 一夜堤築工は当時の板井村農民によって成り、行灯堀は長左衛門を指揮者とする古里村農民によって作り上げたもので、場所は北田耕地(きただこうち)東端板井(いたい)と隣接する箇所である。
 古来飢饉渇水による水騒動は各地にその実例を見るが、この北田耕地はほとんどその上方に灌漑用水地を有せず、降雨期には大洪水を呼び干魃期には水不足その極に達する最悪の天水耕地のため、之に対処する百姓たちは常に血眼で引水に走り廻わるありさまであった。
 このため水争いは以前から絶えず続き、耕地の上部を占める古里村と下部を耕作する板井村田との対立は数十年にわたって眼にあまるものがあった。
 徳川末期における数度に及ぶ飢饉から遂に板井農民の怒りはその極に達し、大挙して古里農民の持つ耕地堰の大部を破壊するところとなり、古里農民もまた之に対決して再三の大騒ぎがくり返された。
 「そんなに古里の奴等水が欲しければ、おれの方は耕地境に大土手を築いて、古里を水浸しにしてやる」という板井村民の暴挙は完全に盛上がり、一夜総動員して耕地を塞ぐ大土手を築きあげて気勢を挙げた。
 この有様にあわてだした古里農民は鳩首熟議を重ね、
 「板井村一夜堤をこのまま看過すれば、北田はほとんど水浸しになって、収穫の皆無は明らかである。一夜堤を一挙に切りくずすか、新たに排水堀を作るか、このどちらかにする外対策はない。」
 「そうだ、排水工事を企ててなるべく穏便な策を講じたい。」
 「それには北田耕地南排水より南方畑地山地を堀り割って駒込沼に落水させるより方法は考えられない。この堀割を急遽りあげて板井の奴らの眼をむいてやることにしよう。」
と言う結論決議となった。
 そこで名主長左衛門がこの指揮監督に推され、さっそく一夜結集して行灯をかかげてこの排水路工事に取りかかり、たちまち竣工を見るに至った。後世この堀割を称して行灯堀と名づけている。
 一堤夜築堤を見た古里村民の驚きもさることながら、行灯堀開拓を断行した古里に対して板井農民もまた驚異の眼で見はったことと思う。
 この両村対立の一大事からすでに百二十年の星霜は流れ、いつの時代か歴史年表を明らかにしたいが、隣接両村の和解は成立してその後対立な事件は起らずすこぶる平穏な村として共に栄え、北田耕地水利問題はむしろ協力してその改良に当っている。
 現在一夜堤は大里郡江南村【現・熊谷市】大字板井地内に、また行灯堀は菅谷村【現・嵐山町】大字古里北端に相対して共に昔の面影を残しているが、土地の人たちの多くはこの由来を知る由もなく、馬耳東風といったかたちで文化生活に浸りこんでいる。やがては世の進展にともない、一夜堤も行灯堀も潰滅し、この封建時代に起こった寒村の悲話もまた人の世から忘却されてしまうのであろう。
(昭和三十八年十一月三日起稿)

『菅谷村報道』154号 昭和39年(1964)8月1日

*1:銷夏(しょうか)…消夏。夏の暑さをしのぐこと。
※江戸時代の三大飢饉:享保の大飢饉(1732)。天明の大飢饉(1782-1787)、1783年8月浅間山噴火。天保の大飢饉(1833-1836-1839)。

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