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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

二、明治のほほえましい人たち

 明治三十八年(1905)日露戦役終結後から大正の初期は私の少年時代で、自動車は勿論なく自転車すら稀に見る頃で、汽車に乗るにも熊谷駅まで十二キロの道を徒歩で行く始末であった。
 村内の人家は殆ど全部百姓で、この頃の農家は老人から子供まで一家総動員で実によく農作業に忙んだものである。
 祖父や父や子供の私たちは暗いランプの下で、縄ない、わらじ・足中(あしなか)作り、秋のよなべは俵編みも父の指導でやれるようになった。祖母や母はその側で綿操りや木綿つむぎなどし、時にぼろとじをしたことを思い出す。
 この頃古里の奇抜な人々として次の人たちが世間の話題に昇っていたことを、そして彼等自身もそれを自負して淡々として生き抜いたのではないかと、追慕の念にかられるのである。

(1)井上重太郎氏
イ.尾根に住む。晩年内出に移転する。
ロ.ニックネーム  わしもそうもう(思う)重太さん
 滑川村和泉の出身で字尾根に居を構え、駄菓子・雑貨等の小売を営んでいた。小造りの男で商売の暇はよく新聞を読んでいた。中々の話好きでしかも田舎物としては博学者、その上節約者で預貯金も人一倍貯えていた。
 人と対談するとき、応答のまず筆頭に「わしもそうもう」を口癖としたので、知らず知らず世間からこのニックネームが附せられたものである。〔以下略〕

(2)飯島辰三氏
イ.尾根の住人
ロ.ニックネーム  目パチパチの辰三(よしみ)さん
 昔は名主をした旧家の主人公であるが、中年事業に失配して大家をたたみ東京王子方面へ転居してしまった。私の父親と同年輩でしかもべっこんの間柄であったため、拙宅とよく往き来した。
 人と対談するときその他誰でも目ばたきはするものであるが、辰三氏は特にその頗度が高かったので、このニックネームがつけられるようになったのであらう。
 晩年郷里に戻って若い奥さんと共に店子を経営したが、老後も相変わらずの目ぱちぱちの辰見さんの愛唱で通ったなつかしい一人であった。

(3)飯島牛次郎
イ.尾根の住人
ロ.ニックネーム  あつはあはあの牛しゃん
 尾根の小農家の主人公であるが、本人は桶職をして「桶屋の牛っさん、あっはあはあの牛しゃん」で地元民から親しまれていた。」
 桶作りの時も道中で行き合った時も、満面笑顔の中から所かまはず陽気なあっはっはあを連発して、人々を喜ばせるのが彼の常道であった。大人でも子どもでも 誰彼なくこの愛敬を振りまいて、他人を喜ばせ自身もまた心から楽しんで一生を生き抜いた誠に奇抜な持主の一人であった。

(4)木村しげ女
イ.尾根に住む
ロ.ニックネーム  これはしたりのおしげさん
 旧男衾村今市(おぶすまむらいまいち)から木村家に嫁した婦人である。当時尾根随一の美人女房として評判の高かった婦人であるが、木村家に嫁した直後、夕 食後の食器洗いをしている最中、ふとしたことから飯茶碗を台所に落し運悪く割ってしまった。その時彼女の口から突如発したことが「これはしたり」の言で、 その後誰云うとなくその言葉が云いはやされて、遂に彼女の代名詞として残ったものである。

(5)大塚作造氏
イ.尾根の住人
ロ.ニックネーム  滅想 作さん
 熊谷・小川街道添 に住んだ一農家の主人である。ごく沈着冷静な性格で、終日鍬鋤を振って農事に勃頭した男。農作業の往復の途次朝夕の区別なく会う人毎に「滅想もない…… 云々」と言う口癖のため、この愛唱が生れたものと思う。「滅想もない」は「とんでもない」の意味を持つものであるから、人から暑いのに、寒いのによくやり ますねと云われたとき「滅想もない、毎日の仕事だからね」なら常識であるが、所かまわわずこれを連発するところに、この人のよさが伺われるのである。

(6)飯島善太郎氏
イ.尾根に住む
ロ.ニックネーム  尾根の善さん 襟をつまんでかしこまる
 善太郎氏は時の区長や区長や諸役にも就かれた、尾根有数の人物である。こく礼儀作法にかない道徳心の強い人で、男女を問わずてい重に他人の応接に当ること で評判が高かった。他家を訪問して座につくと、必ず襟元を合わせ着物の裾口をよく合わせてかしこまる。それから丁寧なあいさつを済ませ、理に叶った用件を 話して対人の意見を伺ういう順序に運んだという。
 現代の人たちも飯島さんに少し見ならうべきではないか。

(7)安藤金蔵氏
イ.内出(向井)の住人で筆者の祖父
ロ.ニックネーム  何あにさあの金蔵さん
 安藤専一家の祖父である。「働きを冥土の旅の置き土産(畑良起が原文)」の辞世の句を遺して一生涯を終ったが、生前は七郷村議会議員を始め諸役にも就任し て社会人として貢献し、家庭においては勤労に努め篤農家として財を積み、古沼再興工事には委員長として専念し、晩年には住宅の新築を中興の祖となった人物 である。
 熟慮断行型の人で、他人から種々の意見を述べても「何あにさあ、こうこうしかじかでおれはやる」と自説を主張して、決して自意を曲げない性格であった。そのためこの人物評があったものと考える。
 尚、野守亭、後に俵雪庵古洲と号して俳句をたしなみ、明治廿五、六年(1892、1893)には兵執神社奉額句集を主催し、また庭木にも親しんだ多趣味の人であった。

(8)安藤照武(織三郎は前名)氏
イ.内出の住人(筆者の外祖父)
ロ.ニックネーム  店の織さん、キセルを上げて
 安藤貞良氏の実弟で安藤仙蔵家の先々代である(祖父)。兄貞良氏が七郷村二代村長の時助役を努め、各種役員にも歴任した古里一流の人物であった。安藤宗家長左衛門に子供が無かったため、兄貞良氏が夫婦子供を挙げて宗家入りしたのでその後を受けて実家を継ぐこととなった。
 家に在ってはよく農事に勤め、そのかたわら店子も営み、菓子団子などを商った。たばこを好み、どうらんからきせるを抜き出すと、必ずその右手を頭上高くさ し上げてから、おもむろにたばこをはさみ点火して吸い出すのが、常時の癖となった。吸いきるときせるさしに当てて吸いがらを叩き、又きせるを頭上にさし上 げてからきざみをつめこむと云う仕ぐさである。これを見ていた人たちから、誰云うとなくこのネームが言い出され、字中の評判となったものである。

(9)千野英一氏
イ.内出の人
ロ.ニックネーム  あんだいの英一つあん
 千野家は代々 精農家で英一氏も若年の時からよく働いた。大変きさくな性格で、誰彼となく話かけ「あんだい、百姓はあきず働かなきゃあだめだいねえ」「それであんだい、 天気にゃあ天気の仕事があり、雨の日にゃあ雨の仕事がいくらでもあるもんだ」などとよく語った。蔭日向なく一生を働き通した男で、晩年は大家作を仕上げ、 また神社や寺院の総代となり社寺事業にも誠を尽し、看護兵の経験もあってちょっとした傷手当は手豆にやってくれるので、近隣の人から好かれた人である。 「あんだいが来た、あんだいが来た」と彼の代名詞は人々の評判であった。

安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月
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