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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

郷土の今昔[安藤専一]

一、小名のことから

 小村落馬内(もうち)・内出(うちで)・尾根(おね)・西方(にしかた)等から、古里村へと村落統合が行われたのは可成古い時代と思われる。畠山重忠が当地方の支配者として威勢を振った頃は、既に男衾郡古里村の名が出ている。
  西方が古里村から分村して西古里村となったのも、いつの時代か不明であるが、新記稿【新編武蔵風土記稿】によれば「正保ノ改ニハ既ニ二村トセリ」と載って いるので、少くとも正保以前である。随ってこの分村は徳川中初期の頃、或いは更にさかのぼって戦国の頃かも知れない。古里村・西方(西古里村)とも重輪寺 の同一檀家であり、慶長年間当時の古里村中が大同団結して重輪寺建立に当った歴史もはっきりしているので、西方が利害関係のため(古老の言)分村したのは それ以降ということになる。
 古里には馬内・御領台・内出(打出)・駒込等、西古里には矢普E吉田には馬場(ばんば)矢(矢先)・陣屋等戦争に因んだ小名が多い。馬内・番場は軍馬を集結した所であり、内出は出陣の場所陣屋は軍平の宿舎のあった所である。
 また矢浮ヘ矢の盛んに飛び散る戦争場所であり、駒込は斃馬を埋没した所である。このことから昔戦場となったことが知れるが、いつ誰らの戦争であったか、古文書等が皆無のため更に不明である。
  次に古里には駒込古墳群・岩根沢古墳・二塚・藤塚・神山等古墳(主として円墳)が散在している。このことから思考すれば、古墳文化時代から先住民が居住し ていたことが知れ、特に駒込古墳からは武人埴輪・庶民埴輪・馬方埴輪(何れも不完全)曲玉管玉が出土し、岩根沢古墳からは古刀・曲玉・管玉が出土を見てい る。武人埴輪は七郷小学校へ庶民埴輪は七郷中学校へ寄贈されて長く保管していたが、現在は武人埴輪は県立歴史資料館に、庶民埴輪(特殊の冠をつけたもの) は教育委員会に移管されている。
 古墳文化時代は崇神天皇(二〇〇年)の頃より大和時代・飛鳥時代中期頃まで約四百年間(この風習は約五、六百年間続いたと思われる)続いたわけで、古里にはその頃から先住民のいたことが知れる。
 古里出身の偉大な人物はまことに少ないが、慶長の頃越後高田城主徳川忠輝の家臣として大阪冬・夏の陣に参戦して武功を立てその功により信越の領主となった 安藤山三郎、嘉永の頃行燈堀工事の先頭役名主安藤長左衛門、幕末より明治に渡り名主・戸長・七郷村長となり治績を挙げた安藤貞良、七郷村長・武芸に長じた 中村清介、陸軍歩兵大尉としてシベリヤ事変に参戦した安藤益介、また一兵卒から騎兵大尉に昇進した安藤巳代吉等は出世頭の筆頭として賞讃に値する人々であ る。
 以上小名(こな)(小字)のことから関連する事柄を記したが、とにかくわが古里は單に古い村ばかりではなく、愛すべくなつかしい郷土であると思う。故に本篇の第一に登載した次第である。

安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月
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