第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
嵐山町の伝説(嵐山町教育委員会編)
十八、落栗庵元杢網(らくりつあんもとのもくあみ)
あな涼し浮世のあかをぬぎすてて
西へ行く身はもとのもくあみこの辞世をのこして世を去った元杢網は、本名金子喜三郎と称して杉山に生れた人です。江戸に出て湯屋をいとなみ、大野屋喜三郎と称し狂歌(きょうか)に勉励いたしました。
その頃江戸で名声をはせていた大田蜀山人や宿屋飯盛らと交わり、喜三郎は後、元杢網と改名して、狂歌の腕(うで)を挙げ一方の大家とまでいわれるほどになりました。
晩年は画を高崇谷(こうすうこく)を師として習い、画号を高崇松(こうすうしょう)と称して一門の絵師でもありました。いま杉山薬師堂に残る『八方にらみの龍』は、町の指定文化財になっております。
元杢網の業績については文献もあり伝記もいろいろ残っているようでありますが、次にその伝記の一、二を記してみます。
(一)、川越発句会のこと
ある年、川越で発句会が催され、杢網先生が江戸から来られるというので、地元の人たちはおおさわぎして会場で待ちかまえておりました。しかし、いくら待っても先生は見えません。ただある一人の見知らぬ俳諧師(はいかいし)が来ていて、一人で勝ち続けていました。
夕刻になってこの人が、川越の目高雑魚(ざっこ)の俳諧師
この黙阿弥に掬(すく)いとられると詠んで、初めて先生であったことがわかり、それから「先生、先生。」と歓待されたということであります。
(二)、ある剣道場を訪うた時のこと
ある道場で、門人が沢山集って剣術の稽古をしていました。そこへ黙阿弥がやって来て
汗水を流して習う剣術の
役にもたたぬと詠んで、門人たちから大変激怒されました。黙阿弥は、「まあまあ、下の句をつけるから待ちなさい。」と言って
御代ぞめでたし
と付けたしました。すると門人たちは、さかんにこの歌を詠み合いました。そして、「なるほど、これは偉いお方だ。」と皆感心してしまいました。
ここの道場主も大いに感激して客座に迎え、海山の珍味を整えてごち走したということです。(三)、善光寺月見会のとき
ある年、黙阿弥が長野の善光寺に旅したときのことです。その日は、たまたま仲秋の名月で地元の俳諧師たちが月見会を催すというので、先生もそれに参会することになりました。
その時、先生は、善光寺で月見る今宵かな
と作られました。すると集った人たちが「これでは字が足らぬ。」と言って、盛んに批評し合っていました。
そこで、先生が、よく光る寺で月見る今宵かな
と読めばよかろう、と説明すると「なるほどおもしろい句だ。」と皆、感心したということです。
『嵐山町の伝説』嵐山町教育委員会編 (1998年再版, 2000年改訂)