第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
嵐山町の伝説(嵐山町教育委員会編)
十九、古里の一夜堤・行灯堀(いちやどて・あんどんぼり)の記
江戸時代の三大飢饉(さんだいききん)といわれた享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉は、農作物の大不作を招き当時の人々は大変に困ったといい伝えられています。
『嵐山町の伝説』嵐山町教育委員会編 (1998年再版, 2000年改訂)
題名の一夜堤・行灯堀の由来もこの三大飢饉に連なるもので、旧古里村と旧板井村との長い水争いの結果が生んだ遺跡なのです。
この一夜堤・行灯堀のできた当時の文書類は、どこにも見当たりませんが、おそらく天保の大飢饉直後と推定され、今より百五十年前頃の出来事であったことは、古老の言からも察知されます。
この古里北田(きただ)耕地はその上方にほとんど用水地がなく、大雨期には洪水となり大かんばつには水不足を生ずる最悪の天水耕地のため、農民たちは血眼で水引に走りまわるありさまでありました。このため水争いは常に続き古里農民と板井農民との対立は、数十年にわたって眼にあまるものがありました。そして板井農民は水不足に困り、大挙して北田耕地のせきの大部分を切りくずす事件が起こり、両村が大騒ぎとなりました。
「古里の奴らそんなに水が欲しければ、おれの方は耕地境に大土手を築いて、北田全面を水浸しにしてやる。」
ということで、一夜総動員で北田耕地をふさぐ大土手を築いて気勢をあげました。
これにあわてだした古里農民は、数回にわたる相談を重ね、
「一夜堤をこのままにすれば、北田はほんとうに水浸しになって、稲の収穫は皆無となる。一夜堤を一挙に切りくずすか、新たに排水堀を作るか、このどちらにするかでしょう。」
「そうだ、排水工事をして問題のないようにすればよい。」
「耕地南の畑や山林を掘り割って駒込沼に落水させるより外に方法は考えられない。」
この第三案により大至急工事を進めることになりました。
時の大名主安藤長左衛門が総指揮者となり、さっそく一夜集結して行灯をかかげてこの工事に取りかかりました。たちまち完成を見るにいたりました。後世この堀割を称して『行灯堀』と名づけています。
この事件からすでに百五十年余、両村の対立もいつしかうち解けて、『一夜堤』は江南村板井地区内に、『行灯堀』は嵐山町古里に相対して、昔の面影を残存していますが、世の進展に伴いやがてこの遺跡も姿を変えて、人の世から次第に忘れられて行くのでしょうか。
ぜひいつまでも保存しておきたい文化財の一つです。