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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

嵐山町の伝説(嵐山町教育委員会編)

八、おじょうろう屋敷と女くぼ

 今から八百余年の昔、大蔵の館に源義賢が住んでいました。夫人は当時藤原氏の全盛時代で義賢は帯刀先生といわれた武人として認められた人だったので、藤原氏のお姫様でした。
おじょうろう屋敷|挿絵 下克上(げこくじょう)といわれる時代で、自分の出世のためには上司でも今仕えている殿様でも、はなはだしいのは親でも兄弟でも討ち負かして、自分が天下をとるという世の中だったから義賢は、いつ大蔵館が攻撃されるかわからないので、風光明媚(ふうこうめいび)な嵐山渓谷の地に別荘を造り、夫人をそこに住まわせました。これをお上臈屋敷(じょうろうやしき)と言いました。
 久安二年(一一四六)この別荘で義賢夫人は、吉光御前を産んだのでした。昭和四十八年が親鸞生誕八百年の年だったが、この吉光御前は親鸞上人の母親で、何時の時か京都へ移り住むようになったのでしょう。義賢は大蔵に館はあったが常に上野、武蔵を歩き自分の武威を高めたが、京都へも折々上り藤原氏の高貴な人々を、おじょうろう屋敷へ招いて接待をされたようです。
 おじょうろう屋敷の南に『女くぼ』というところがあります。これは、女公方(おんなくぼう)で、女の方で宮中に仕える豪族の奥方や貴人たちの宿舎や邸宅を意味するものでしょう。京都とこちらを往復するうちに、武蔵や上野に住みついた人もあったでしょう。今、藤原氏の家紋だろうといわれる藤の紋がこの付近に多いのも考えさせられます。
 おじようろう屋敷の裏といわれる槻川の川原の、『きっこう岩』『きっこう淵』といわれるところは、吉光御前が子どもの時に遊んだ岩、水あびした淵を、当時ここに住んだ人々が名づけたものでしょう。
 今は交通の便のよいところに住む人が多いので住宅がこの辺に少ないが、今、月川荘(つきがわそう)の店のある近所には縄文時代の人々の住んだと思われる土器の破片がとても多く出ていることからもかなり昔から人が住んでいたことがうなずけます。

『嵐山町の伝説』嵐山町教育委員会編 (1998年再版, 2000年改訂)
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