第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
嵐山町の伝説(嵐山町教育委員会編)
七、大蔵のやかた
大蔵の神社のあるところ、その近所に大蔵の館(やかた)があります。東西一七〇メートル南北二〇〇メートル位の広さを持っています。
今から八三〇年くらい前、源 義賢(みなもとのよしかた)が、ここに館を構え、自分の勢力の拡大を計りました。もとは京都で近衛院の春宮(とうぐう)帯刀の長という役につき、帯刀先生源義賢といって、立派な侍でありました。勢力を張り一方の大将となるには京都にだけいたのではだめだと考え、父為義の領土だった上野国多胡(たこ)(群馬県多野郡吉井町)ヘ来た。そして大蔵の地が、武蔵武士として発展するのによいところと考え館を構えて勢力発展に努めた。
同じ頃、武蔵で大いに発展しようとした義賢の兄の子、源義平(悪源太)が父義朝と相談して、軍勢を引き連れ攻撃し、久寿二年義賢を討ち滅ぼしてしまいました。新藤貴司さんのお家のわきの墓が義賢の墓です。その時、義賢には二才になる駒王丸というかわいい男の子がいたのですが、大蔵館が討たれるという報に、母は駒王丸をつれてお家を逃げ出しました。そして山の中をあちらこちら逃げ歩いたのでしたが、ご飯が食べられずお乳も出ず、駒王丸が泣き止まないのでとうとう敵に見つかってしまいました。その時の敵方の大将は畠山重能という人で重忠のお父さんです。悪源太義平から「見つけ次第殺せ。」との命令ですが、かわいそうでとても殺せません。ちょうどその時、妻沼の斉藤実盛が来たので、駒王丸の乳母だった木曽の中原兼遠(なかはらかねとう)の奥様のところへ預けることにしました。これが後の木曽義仲という侍大将になりました。
『嵐山町の伝説』嵐山町教育委員会編 (1998年再版, 2000年改訂)