第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
嵐山町の伝説(嵐山町教育委員会編)
二、大蔵の縁切り橋
大蔵から将軍沢へ行く途中、右手に田が二、三枚その先が不動坂です。田から流れ出す堀に橋が架けてありました。これが『縁切り橋』です。
『嵐山町の伝説』嵐山町教育委員会編 (1998年再版, 2000年改訂)
不道坂を登り切ると左手に日吉神社の鳥居が見えます。前に『けつあぶり』の話を書きましたが、坂上田村麻呂が軍勢を引き連れて滞在し悪龍退治のため様々の工夫をし、夜を日に次いでの準備にとても忙しかった時です。将軍の奥方が心配のあまり、京都から旅を重ねてここまで来ました。奥方の姿を見た家来は、日吉神社の裏山で待っていただいて将軍のところへとんで行ってお話ししました。
「天皇の命令で、征夷大将軍としてこの地に来ている私に、妻が訪ねて来るとは何事だ、会わぬぞ。」と大声でどなりました。そして将軍は立ち上がり、杉の木の生い茂る森の方へ歩いて行きました。
将軍の声を聞いた奥方は、お付きの人の止めるのを振り切って、将軍の方へかけて行きました。将軍の側までかけつけた奥方は「将軍様。」と声をかけたが将軍は何とも言わずそのまま森の中へ入ってしまいました。そこで人々は奥方の待っていたところを『逢はずが原』と言い、森でもお話が出来なかったので『添わずが森』と言うようになりました。
さて翌日、将軍は家来に命じて奥方に京都へ帰るよう出立させました。
奥方が心残して帰るのを将軍は不動坂の下まで来て「大命を受けて出陣しているのに、それを追い来るとは何事だ、ただ今より妻ではない、夫ではない、早々立ち去るがよい。」と、夫婦の縁を切る宣言をしました。泣き崩れる奥方、立ち去る将軍、そしてこの橋を『縁切り橋』と言うようになりました。
縁切り橋は縁起が悪いと婚礼の時にはそこを通らぬようにという習慣が将軍沢に生れたので、みんながそれを守って、婚礼の時には別の道を通っていたのでした。ところがある家の結婚式で「そんな迷信を守らなくとも。」と、嫁さんを通すことにしたのです。縁切り橋を渡り不動坂の途中まで来た時、静かに歩いていた嫁さんが突然転びそうになり、袖が道に伸びていた松の枝にかかり、嫁さんも無事に婿家に着けたというお話です。その後、嫁さんを助けてくれた松を『袖掛けの松』と呼ぶようになり、五本が長い間あったが今は枯れてしまった。近頃の嫁入りは、自動車が多いので、この橋もなくなったが、みんな通るようになりました。