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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

広報に掲載された嵐山町の伝説

古老に聞く

首なし地蔵 その他 金子慶助

 昔、この坂附近の団子屋で繁昌した金子屋には十四・五才の美しい娘があった。今本名は伝わらないが杉山小町といほどの美しさであったので、土地の若者達はいうまでもなく、ここを通る旅人や馬子たちも必ずこの店に立ち寄り、渋茶をすすり甘(うま)い団子を味いながら、愛嬌のよい小町娘の初々ういうい)しい姿に心を奪われ、ひそかに甘い情緒を湧かしたに相違ない。
 ところが寒い冬のある夜その金子屋の本宅に強盗が押し入った。寝ていた主人はじめ家中のものを残らず縛(しば)りあげ、家の中を隅(くま)なく探して金目の物を奪ったのみならず、家の飼馬を曳き出してそれに縛ってあった娘と奪った物とをくくりつけ、熊谷街道から反(そ)れて北方に向かって引き揚げて行った。恐らく娘を中山道深谷宿の遊女屋にでも売りとばすつもりであったろうと思われる。
 ところが少し行った道の傍近くに、同じ杉山村の藤野多右衛門の家があった。その近くにさしかかった時何かのはずみに娘の口にはめてあった猿ぐつわがとれたそこで娘は大声で「多右衛門さん助けて!!わたしは盗まれて行く!!」と叫んだ時ならぬ娘の泣き叫ぶ声を床の中で聞いた多右衛門は「さては夜盗め!!」と歯がみをしながら、平素腕に覚えのある木刀片手に、戸を蹴明(あ)けて声のした方にひた走って行く。
 「助けて!!助けて!!」という娘の絶叫は尚もつづいたがそのうち「このあま!!」という声と共にバッサリと太刀音がして、娘の声はそれきり絶えてしまった。「しまった」と歯ぎしりしながら息はづませて駆けつけた多右衛門の目の前は真暗で何もみえない。漸く後から駆けつけた忰(せがれ)のさし出した提灯の、震える光の下で見た物は何であったろう。「ヤアこれは金子屋の娘だ!!」多右衛門は棒のように突き立ったまましばらくは口もきけない。寝巻きのまま後手にしばられ両足をくくられた娘の胴体と首とが、血の海となった枯れ野の中に別々に転がっていたあとには馬の蹄の音だけが北の夜空のしじまを破ってかすかに聞こえている平素自分の娘のように可愛がっていた娘、しかも最後の最後まで自分を頼って叫び続けていたその声、多右衛門は腸をちぎられる思いで男泣きに大声で泣いた。「自分がもっと早く駆けつけたならば憎い賊の一匹や二匹は叩き伏せ、たとえ自分は手傷を負うとも娘はこんな無残な姿にはしなかったものを」とくやしがった。その後も多右衛門はその声が耳について離れず、どうしても忘れられないので、娘の死骸のあった自分の畑の片隅に、小さいながら石の地蔵さまを建てて毎日香花をあげて供養していた。
 ところがある夜その地蔵さまの首が何者かに持ち去られた。多右衛門が可愛さのあまり特に石屋にたのんで娘の顔に似せて彫らせたその首である。「どこまで運の悪い娘だろう」と多右衛門悲しがって又同じように首だけ石屋に彫らせてつけたが又なくなっている。
 幾度かこれをくり返したことであろう。そのうち多右衛門はなくなり石像は首なしのまま道端に草むらの中にしょんぼりと淋しく立っていた。
 筆者は幼年の頃祖母や母にこの悲しい話をきき、その首なし地蔵がなんとも云われない悲を持っているように思われて傍に近づくのも避けるようにしていた。「それにつけても昔は恐ろしいこたがあったものだ、今はよいなあ」と幼な心にも感じたものであった。
 この藤野氏は天正十八年忍城の落城と共に帰農した武士の流れと云い伝えられ明治維新後百姓も姓を名乗る時代となって若野と改め、筆者の少年の頃まで多右衛門さんの何代目かの孫にあたる多右衛門さんというお爺さんが居て、可愛がられたのを覚えている。
 金子屋は有名な元杢網の生家で、殺された娘は弟の喜四郎の末娘か孫であったろうと思われる。その後若野家は明治四十二年(1909)頃秩父市に移住し、その畑地も、他人の手に渡ったので、金子屋の当主長さんは、字内の積善寺に頼んでその地蔵さまを境内に移し、今でも毎月二十四日の娘の命日には必ず団子をつくって供えに行っている。
 今積善寺の入口の向って左側近くに小さなお堂があって、その中に高さ五〇糎ばかりの首のない地蔵尊の石像が安置されている。在石はあまり良質でないためか欠損したところもあるがその背面には次のような文字が判読できる。

     天明元丑辛天  施主
     為如幻童女菩提也
     二月◯◯◯藤野多右衛門

 天明元年(1781)は十代徳川家治の頃でその三年(1783)にはかの有名な大飢きんがあった。古老の話によるとその年より四年位前から年々気候不順で五穀稔(みの)らず、だんだん食糧が不足して来て遂に大事に至ったとのことであるから、天明元年頃も人心は不安で荒んでいたものであろう。
 又この年は元杢網は六十才位で健在だった筈であるから、生家のこの災難をどこかで聞いてさぞ悲しんだことであろう。

『菅谷村報道』148号(1963年11月1日)
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