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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

広報に掲載された嵐山町の伝説

古老に聞く

首なし地蔵 金子慶助

 武蔵野台地のゆるやかな起伏、その丘陵の上や窪地(くぼち)に拓(ひら)けた田や畑、その間にまばらに散在する農家、古い昔から恐らくこのままの姿であったろうと思われるそのただずまい。何の変哲もない平凡な農村であるわが杉山の郷(さと)ではあるが、時の流れの幾変遷、歴史の激しい嵐の下に、土に喰いつき土に埋もれて生きて来たこれら農民の社会にも亦それなりに幾多の歴史があった筈である。
 これら郷人(さとびと)の間に、口から口へと語り伝えられた伝承・里伝も、今や残り少い古老の間だけに残り、遂に日の眼も見ないで埋没せられるであろうし又すでに埋没されたものも多数あることであろう。今にしてその埋没を防ぎ、埋蔵されたものを発掘し、それを記録して後世に遺すことに努めなければ、悔いを将来に残し、文化国家の国民としての誇称を嘲笑せられる時が来るであろう。
 徳川の治世もすでに中葉を過ぎ、世は太平で文化の華咲き匂う如くであった頃にも、農民は重税と年毎にかさむ生計費に苦しんで居た。殊に狭い土地からの些やかな収穫では、とてもくらしが立たないこの土地の農民は、いろいろな副業による現金収入の途を考え出した。農業のかたわら大工・左官など職人となるもの、或は資本の多少によって質屋・金貸しなどの金融業、或は酒屋・餅屋・団子屋などの商売を始め、中には心天(ところてん)屋などまででてきた。
 その頃はまだ交通機関が発達せず、人は徒歩、荷物は人か馬の肩か背によって運ばれ、車はあまり使わなかった時代であるから、道は途中に坂はあっても距離の近い方を選んだので、物資の交易も狭い範囲で行われ、その交通路線も今日の人々からは想像も及ばないような処を通じていた。西の方小川町を中心とする山の方と、東の方今の滑川村・江南村・大里村などの平坦地(里方=さとかた)とでは、多くの物資の交易が行なわれ、その重要な交通路の一つが杉山村の北部を通じていた。
 即ち江南村須賀広・小江川方面から滑川村和泉を経て勝田の長沼谷通り、広野を経て杉山に入り六万坂を超えて市野川を渉り、中爪の七曲(ななまがり)の坂を越えて小川町に入るもので、明治になって熊谷−小川間の県道を通ずる際にもその候補路線の一にもなったと聞いている。昔は東の方の里方から米麦の俵を積んだ駄馬が西に向かって山の方に行き、帰りには炭俵や蚕の掃立紙・障子紙・織物類などの荷を積んで里方に通るという具合(ぐあい)で人馬の交通量は相当なものであったと思われ、筆者の少年の頃、明治三十年代にも人と駄馬との交通は非常に多かったと記憶している。
 この杉山村の北部を東西に通ずる道筋にある六万坂は、昔から有名な粘土坂の難所であった。今でこそ丘陵間の東西の窪地を切り通しで結び幾度かの改修を経て、狭い坂道ながら村道となった道が通じているが、その昔はその窪地を避けて北側の丘陵の中腹を穏やかな傾斜をなして斜めに登り頂上を超えて通る長い坂道だったらしく、今でも大体その跡はわかる。例の杉山城主源経基が、六万部の大般若經を埋めた経塚だと伝えられる六つの塚や塚跡もその路傍に並んで存在する。
 このあたりの地質は粘土層が多く露出し、通行に非常に困難なので、人も馬も一息入れなければならぬところであったろうと思われ、この路傍に団子屋・餅屋などの出店があったのもうなづけるのである。筆者が幼い頃古老に「ここで佐重さんが甘(うま)い餅を売っていたっけ」と話されたところが丘の上の路傍にある。
(つづく)

『菅谷村報道』147号(1963年10月14日)
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