第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
広報に掲載された嵐山町の伝説
古老に聞く
巨人伝説(その二)金子慶助
大太坊伝記が何故にこの土地に存在するかについて考えて見ると、非常に古くから住民がこの附近に居たことに結びつく。広野大田坊から東南方に続く字下郷地内には、相当広い台地をなす丘陵があって、その下から各所に清水が湧き出てその上の畑地の中から縄文弥生・陶など各期の土器の小破片が、県文化財調査委員小沢国平氏によって発見されて、古代人住居跡の存在が暗示せられ、又開墾前にはこの台地の上に多数の古墳があったとのことで、今でも尚半壊したものが残っている。
『菅谷村報道』151号 昭和39年(1964)3月10日
更に、これに続く字金皿には百米ばかりの孤立した嶺があって、その中腹に金鑚神社がある。又太田坊を隔てた対岸の杉山にも、前記の丘陵と殆ど平行に走る丘陵があって、その上の十三塚の附近から、先年東京帝室博物館(旧称)の和田千吉氏によって、弥生式土器の破片が発見された。
これらのことから考えるとこの大田坊の沼地の周辺地域には、約七千年前の先史時代から住民が居り、石器土器を用いて狩猟漁獲を主とする生活をはじめ、漸次金属を併用して丘を拓き水を引いて稲作をする農耕時代に入り金属専用の時代に及ぶという人類文化の進歩過程を、狭いながらこのあたりを舞台として、くりひろげたのではないか。その間大和朝廷の勢力の及ぶに至って、古墳築造の風も行われ、金鑚の神を奉祀することになり、現代に続く農村の状態となったと考えれる井戸を掘ったり大規模に水流をせき留めることをしなかった太古の人々は、自然の清水や水溜りを求めてこれを利用したことは当然で谷間の低温なジャングル地帯を避けて、高燥な台地に居住した原始人も、水は谷間の泉から汲み、沼の魚具を漁ったであろうし、金属器具を用いて水田を拓くようになってからは、住居も漸次低いところに移して来て沼の恩恵を益々感ずるよになり、これを神の恵みの足跡と考え、大太坊の伝説を生むに至ったものであろうもたとえ他所から移入された伝説でも、容易にこれを取り入れたものであろう又御堂山は大田坊から約千米を隔てて南東にあり、高さ八〇米ほどの孤立した第三紀の古い岩石から成る丘で、麓を流れる市野川の河床にも同じ岩層が露出しており、今日から見れば空中から降ってきた地塊とは見えないが、当時の土民の素朴な信仰からは、これをしもこの伝説の中に取り入れてしまったものであろう。さて一方の足跡だが、父の指摘した羽尾にはないらしい。しかし愉快なことには本村千手堂にデイラ坊のあしっこ沼というのがあることが、最近簾藤左治さんから聞くことができた。これが同時についた足跡なら、大太坊は本村内を南北に約四粁の大またぎに通ったことになり、御堂山は背中の籠の少し側面のめどから漏つことになりそうである。とにかく古来全国各地に伝わるこの巨人伝説が、わが郷土にも古くから存在ししかもその足跡と山造りとが揃って模式的に備わっていることは非常におもしろい。近刊の柳田国男集第五巻には「ダイタラ坊の足跡」という標題で、二十頁に亘って、この巨人伝説を載せているが、その中「巨人来往のちまた」という項で「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心ということができる。我々の前任者は大昔かってこの県の青空を東西南北に一またぎに歩み去った巨人のあったことを想像していたのである。而して何人が記憶していたかは知らぬが、その名は「ダイタラ坊である」と記し、更にデイラ坊の山造り、関東のダイタ坊、百合若と八東脛、一夜富士の物語、古風土記の巨人其の他の見出しで、東京附近をはじめ全国の実例をかなり詳しく記している。
しかし本村のは記されていない。灯台下暗しで柳田先生の巨大な足跡がわが郷土に残されなかったことは、誠に遺憾な次第である。
尚、東京世田谷の代田はこの伝説から出たとのことであるから、浦和の大田窪もこの種の名称であろうし、小川町高見の四津山南麓の沼るしへこ沼というとのことであるから、この伝説のものであろうと思われる。