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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第4節:今昔話・伝説

広報に掲載された嵐山町の伝説

古老に聞く

巨人伝説 金子慶助

 幼い頃父に抱かれての寝物語りに「大昔この土地をダイダン坊という非常に大きな男が、土を一ぱい入れた大きな籠を背負って、どこからか歩いて通った。その時の片方の足あとが今の粕川のダイダン坊堰のあたりで、他の片方のは羽尾あたりにある筈である。
又その時背中の籠のめどから漏って落ちた土が、太郎丸の御堂山となった。それだからあの山は「めど山」というのがもとの名だそうだ」という話をたびたび聞かされた。始のうちはそれは本当なことだと思って、驚いたり又その姿を想像したりして好奇の心を躍らせていたが、少し大きくなってからは「そんな馬鹿なことがあるものか」といろいろ父に質問し、父と終には笑いながら「これは大昔からある昔話さ」ということになった。今でも懐しい思い出である。
その後巨人にかかる種々な読み物なども見たが、昭和六年(1931)から刊行された平凡社の大百科辞典に、藤沢衛彦、早川孝太郎両氏による巨人伝説の巨人足跡伝説・ダイタラボッチ(大太法師)の三項があって、幼い頃聞いた昔話を思い出し、非常に興味を覚えた。この記事を要約すると、「巨人とは超自然的な存在の巨人を謂い世界各地のこの伝説がありその種類も多様である。そのうち日本における一例として大太法師があげられる。これはダイラボッチともいい、古代人が自然を支配している神(大人)を想像しその持つ威力を、後に内在的な霊智と形即ち体軀とに分解して、その霊智を代表するのが神であり、体軀によって代表された部分は単に巨人となって説話化されたもので、大多(ダイタ)または大太坊、土地によっては大楽(ダイラ)坊、デイラ、レイラ坊等の名がある。
大太法師伝説の特色は、所謂一夜富士の形で語られるもので、富士山を一夜で築いたというなど各地の高山の伝説に多く語られる山造りの形式であり、他の形式はその足跡を語るもので、沼とか又は凹地のやや足形に似ているものを大太法師の足跡とする説で、これ亦各地に多く伝えられる。関東地方にはこの種類のものは数十ヶ所もある。要するに足跡は古く神の来た跡を記念する思想から出たのものである」というのである。そこで昔、父に聞いたダイダン坊の話を思い出す。この話にあるダイダン坊堰は今でも普通に呼ばれている名称であるが、この附近一帯を占むる小字の名称は大田坊であるから、これは前記大太法師と通じ、その説話の内容は大太法師のとその軌を一にしている。これによって考えると、関東地方に多いと云われる大太法師の説話が、いつの頃にかわが郷土にも移入されて土地の人々に語り伝えられ、やがて地名にもなったものであろう。それならその移入された時代はいつ頃でのあったろうということになるが、父の話はその祖父から聞いたといって居り、大昔の話としているが、本来地名のうちには相当古くから呼ばれているのが多いらしく、例えば筆者の家に伝わる慶長二年(一五九七年)の秀吉の縄入れの時の杉山村の水帳によれば、大字名は勿論小字名も今のとあまり変らず、その後に加わった今の小字名も、何かその土地の古い名称がもとになったものが多いらしいことから推察すると、大田坊の名称の起りも古く、到底徳川時代あたりではないであろうと思われる。
現在大字広野の字大田坊と呼ばれる土地は、広野の中部から南部に亘り、西方は杉山に接し粗川*1を跨いで水田約六ヘクタール畑二ヘクタール平地林一七アール宅地若干を含むかなり広い地域であるが、杉山の猿谷の丘陵が西方から急崖をなして、粕川に迫り、広野の畑地をなす丘が東方からこれに応じ、粕川の汎濫原が最も狭ばまっているところでその流路も屈曲甚しく、その堰のあたりを起点として複雑に分岐して流れたことも今の水路から考えられる。従って洪水時には沼のようになって容易に水の退かない低温な水田が多い。
人工の加えられない大昔はこれがもつと甚しく、相当広い地が沼になっていたことも想像され、その形が大体足跡に似ていて、これが大多坊伝説に結びつき、後世これに接近する地域を含めて字大田坊という地名になったのではないかと思われる。

*1:粕川の誤りと思われる。

『菅谷村報道』149号 昭和38年(1963)12月15日
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