ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第3節:災害・消防・警察

震災

関東大震災下の七郷村被害調査と救援活動

比企郡での被害調査

 1923年(大正12)9月1日の11時58分に関東大震災が起こった。その範囲は、東京と神奈川を中心に、埼玉、千葉、静岡、山梨、茨城におよんだ。埼玉で家屋が倒壊したりして特に被害の激しかったのは県南部・東部の川口、粕壁【春日部】、幸手地域で、県はこれを県下の三大被害地と称した。
 地震の混乱がややしずまった同年9月19日、比企郡役所は県からの指示で、七郷(ななさと)産業組合長あてに「震災ノ産業組合ニ及ホシタル影響調査」の依頼をしてきた。組合の調査回答を見ると、産業組合と個人所有の建物機械器具その他の設備の被害などはないが、「購買品何レモ品不足買入ニ苦心」、しかし「災害前買入タル品ニテ各自節約し其間(そのま)ヲ合セ麦肥(こやし)モ幸ニ現品ニテ買入アリ其不足分ヲ買入レ其需要(そのじゅよう)ヲ充(みた)ス考ヒナリ」と記している。施設面の被害はなく、品不足で苦労したようである。

震災被害者への救援・義捐金活動

 同年10月2日には、七郷村村長から区長の市川藤三郎宛に、「震災罹災者(りさいしゃ)運賃ニ関スル件」という通知が来ている。震災のとき無賃扱いで避難して来た人たちが、さらに故郷や知人のもとに行く場合には、県からの指示で「運賃割引」になるので、該当者に知らせるようにという内容であった。
 同年11月には、比企郡震災義捐金募集発企者惣代庄野俊平の名で、市川藤三郎、船戸米三郎外10名、船戸武夫外5名、船戸楫夫、船戸平左衛門、長島仙五郎外3名宛に、義捐金拠出に対するお礼と報告の文書が送られてきている。文書には、義捐金が予定額を超えて集まり、被害者に対する救援と慰問を行なったことが記されている。これは9月7日に代議士、県会議員の48名が発起人となり、県が窓口となって罹災義捐金募集が開始されたことに対応して、比企郡で取り組んだものと思われる。
 翌年7月には、財団法人埼玉共済会長から市川家に感謝の文書が送られてきた。それには、共済会として震災家屋復興資金の貸付を行い、家屋復興に貢献しえたが、それは共済会を援助くださった各位のおかげであるとお礼がのべてある。

震災復興協議会と生活改善運動

 1923年11月に埼玉県社会課は震災復興協議会を開き、生活改善運動に乗り出した。七郷村長からは産業組合長市川藤三郎宛に、「震災復興活動写真講演会並ニ協議会開催ノ件」という通知が来ている。その内容は、活動写真「東京地方震災の状況」の上映と講演会の開催である。講演の目的は、次の県訓令と告諭(こくゆ)の徹底であった。
1 大正十二年県告諭第三号(震災后(ご)ニ処スル県民ノ心得方(こころえかた)ニ関スル件)
2 大正十一年県訓令(生活改善ニ関スル件)
3 同年県告諭(生活改善申合規約ニ関スル件)
 1923年(大正12)の県告諭第三号は、「県民ハ鋭意本県ノ復興ヲ図ルト共ニ、直接間接ニ帝都ニ関シテモ出来ル限リノ力ヲ致(いたす)」ことを求めるものであった。これに対して、1922年(大正11)の県訓令と告諭は、時間の励行、結婚式、葬式、贈答、年賀、服装等の簡素化、良風(りょうふう)美俗(びぞく)の必要をめざすものであった。これは震災の前年に出されたものだが、悲惨な震災映画の上映に合わせて国民に生活改善を迫るものであった。
 大正時代は「大正デモクラシー」という言葉で表現されるように、民主主義的改革を求める運動や思想が高まった時代であった。そのなかで労働運動、農民運動、社会主義運動、差別からの解放を求める水平運動なども起こってきた。しかし当時の支配層はデモクラシーの風潮を、華美に流れ、国民精神の堕落したものととらえ、震災復興の取り組みに合わせて綱紀粛正(こうきしゅくせい)、生活改善、国民精神作興(さっこう)の運動を展開した。それは民衆を主体にした「大正デモクラシー」の風潮を抑えこもうとするものであった。

このページの先頭へ ▲