ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第3節:災害・消防・警察

震災

関東大震災と菅谷村

戒厳令の発布

1923年(大正12)9月1日11時58分、関東地方は大地震に見舞われた。昼食を準備する時間帯であったため、地震と同時に火災が発生した。関東大震災である。被害は東京・神奈川で最も激しく、埼玉では東京に隣接する県南・県東部で家屋の倒壊(とうかい)などが激しかった。防災の日が9月1日であるのは、この震災を記念して定められたものである。
政府は震災の被害によって社会不安の高まることを恐れて、9月2日に戒厳令を発布し、各地の師団に上京命令を出して、東京周辺を軍の制圧下に置いた。

県内務部長の自警団結成の通牒

埼玉県では9月2日夕方には内務部長が、政府の指示に従って「不逞鮮人暴動に関する件」という通牒(つうちょう)を県内の郡町村長あてに通達した。そこには「今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人(ふていせんじん)の盲動有之(もうどうこれあり)、又其間過激思想を有する徒らに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次(おもむきききおよびぜんじ)其の毒手(どくしゅ)を振はんとするやの惧有之候(おそれこれありそうろう)」、つまり東京では不逞な朝鮮人が不穏な動きをし、さらに社会主義者などの過激思想を持つ者と一緒になって毒手を振るおうとしているとして、「町村当局者は在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、其の警戒に任じ、一朝有事(いっちょうゆうじ)の場合には、速やかに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度」と記されていた。この通達によって9月3日には、県下の各町村で在郷軍人分会、消防団、青年団による自警団が続々と結成され、朝鮮人を警戒するようになった。

庶発第八号
大正十二年九月二日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
不逞鮮人暴動に関する件
移 牒
今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の盲動有之、又其間過激思想を有する徒らに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次其の毒手を振はんとするやの惧有之候に付ては、此の際町村当局者は、在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、其の警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度、右其筋の来牒により、此段及移牒候也

「圧迫と虐殺」(朝鮮人虐殺事件)吉野作造 より

菅谷村の「急告」

嵐山町の志賀一区の区有文書には、次のような文書が残されている。
急告
本月一日未曾有(みぞう)ノ大地震ノ為メ各地ニ於テ惨害(さんがい)実ニ名状(めいじょう)スベカラス人心恐々タル際ニ乗シ不逞朝鮮人ハ社会主義者等ト結托(けったく)シ爆弾ヲ投シ放火スル等ノ虞(おそれ)アリ現ニ東京市ニ於テ此ノ事実ヲ見タリト本県ハ東京ニ近接シ之等ノ虞アルヘキヲ以テ本県ニ於テハ警察部ニ於テ夫々(それぞれ)之(こ)レカ警戒ニ努力シツツアリト雖(いえど)モ人員ニ限リアリ何分手不足ヲ感シ活動ニ十分ナル能(あた)ハス依テ軍人分会青年団等ト連絡ヲトリ夫々自治的ニ警戒スルノ必要有之ベクニ付十分御配慮相成度御通知申上候也
大正十二年九月三日
菅谷村役場
区長 消防部長 殿
尚右【上】の件に関し明日相談会を開会致す都合に付御含み願上候
県の通牒は電話などで伝達されているので、「急告」の文面は多少違っているけれども、内容的には県の通牒の趣旨をふまえたもので、これによって菅谷村でも朝鮮人対策の自警活動の態勢がつくられたと思われる。

県北での朝鮮人虐殺事件

当時、県南地区には東京から多くの避難民がやってきたが、その中にいた朝鮮人は警察に続々と保護(ほご)検束(けんそく)された。9月4日になると、県はこの朝鮮人を群馬県内の軍の施設に移動させようとして、警察と自警団が護送して中山道を県北まで来たとき、熊谷,神保原(じんぼはら)【上里町】、本庄で自警団と群衆によって朝鮮人が襲(おそ)われ、虐殺(ぎゃくさつ)されるという事件が起こった。県内の虐殺数は確認できたものだけでも193人、確認できていないものまで入れると223〜240人になる。埼玉の事件は中山道筋を中心に起こったもので、比企地区では自警団の結成は行われても朝鮮人虐殺事件は起こらなかった。

関東戒厳令司令官命令

9月3日から4日にかけて各地で自警団による朝鮮人虐殺事件が起こると、政府は5日に内閣告諭第二号、戒厳司令部は関東威厳司令官命令を出して、自警団活動の制限に乗り出した。菅谷村役場には、次のような9月6日の文書が伝達されている。
関東戒厳令司令官命令
軍隊ノ増加ニ伴ヒ警備完備スルニ至レリ依テ左ノ事ヲ命令ス
一、自警ノタメ団体若クハ個人毎ニ所要ノ警戒方ヲ取リタルモノハ豫メ最寄警備隊憲兵又ハ警察官ニ届出左ノ指示ヲ受クベシ
二、戒厳令地域内ニ於ケル通行人ニ対スル誰何検問ハ軍隊憲兵警察官ニ限リ之レヲ行フモノトス
三、軍隊憲兵又ハ警察官署ヨリ許可アルニ在ラサレハ地方自警団及び一般人民ハ武器又ハ凶器ノ携帯ヲ許サス
九月六日       関東戒厳司令官
陸軍大臣 福田雅政太郎
罹災者救助へ
志賀一区の区有文書には、さらに次の文書が保存されている。
罹災者(りさいしゃ)救助ニ関スル協議要項
一 分会、青年団合同ニテ行ナウコト
ニ 被服類ノ救助ヲナスコト(一家一品以上ノ標準)
(着物、シャツ、モモ引、ジュバン、足袋類、三尺、帯、サラシ布、手拭ノ如キ必要品)
三 洗濯(せんたく)、手入等ヲ要セザルヤウニスルコト
四 住所氏名ヲ付スルコト(各品毎ニ寄贈者ノ住所氏名)
五 本日中ニ各家庭ヘ通知徹底(てってい)セシムルコト
六 十三日早朝ヨリ集メ学校ニテ荷造リシテ同日中ニ郡役所へ送附スルコト(役員総出ノコト)
七 町村内罹災者ニ適宜(てきぎ)ノ方法ヲ構ズルコト
八 伝染病ノ憂(うれい)アルモノノ寄贈品ニ対シテハ適宜(てきぎ)ノ処分ヲナスコト
九 運搬(うんぱん)ニ関スル費用負担ノ件     
十 其他
備考(びこう)
(1)各町村毎ニ同一種類ノモノヲ約五貫目位ノコモ包ミトシ種類ト数量ヲ記シタル荷札ヲツケルコト
(2)品目数量等ヲ記シタル送附状ヲ郡ヘ提出スルコト
(大正一ニ、九、一一)            菅谷村分会
菅谷青年団
この文書によると、震災直後の9月11日に罹災者救助の協議が行われ、その日のうちに各家庭に協議内容の通知徹底(てってい)が行われ、13日早朝には学校で集まった救助品の荷造りを行なって、その日のうちに郡役所に送付することになった。救助品は被服類が中心で、一家一品以上、村の全戸を上げての取り組みであった。そして救助品は郡役所を経て被災地に送られたものと思われる。

このページの先頭へ ▲