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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第3節:災害・消防・警察

震災

関東大震災の思い出

                鎌形 小林

 今から六十年前の大正十二年(1923)九月一日の関東大震災は、十三万五千戸の家を焼き、九万一千余の人名を奪ったというが最近また、地震についての情報が多くなった。
 地殻変動、日本海中部地震、東海地震等は私達に何かの警告を示す思いがする。今の世の中の人口密度、建造物、交通網がもしあの時のような地震の為に寸断されたらどんな惨事が起こるか、思うだに身ぶるいする。
 ところで大正十二年(1923)といえば、この地方では(鎌形)電気関係のものは一切なく報道機関も日毎に配達される新聞のみ、それも僅かの家庭であった。交通も自動車の通るのは珍らしく一部の人が自転車、あとは徒歩であった。汽車に乗るには、熊谷、鴻巣又は坂戸まで行かねばならぬ。(嵐山駅は同年十一月【菅谷駅という駅名で】開業)

東の空が真赤

 そんな時突然大地震が起きた。九月一日、昼ごろ風のない蒸し暑い日だった。何かにつかまらないと立ってはいられない。地面に座りこむ激しい揺れである。余震が何回もくり返す。その度に戸外に飛び出す。棚の物や家屋の壁、屋根瓦等が場所により落ちた。
 その夜、東の空一帯が真赤に染まった。何事だろうかと近所の人達が集まって騒いだ。
 三日ばかり新聞も来ない。翌日学校に行くと先生が新聞紙、半切の号外を手にして東京の大災害の話をしてくれた。幸いにしてこの地方には地震による被害はなかったがその後悪い色々な噂が各地に起こり、自警団まで組織して徹夜警備に当たった。何事もないのに警鐘を乱打して世間を騒がせたのであった。
 当時私は十五歳であったが縁故者が東京に居たもので叔父に連れられて、東京の焼野原も歩いたし浴衣一枚、素足のまま親戚に向かう人達とも会っている。裸になっても命だけ助かったことを喜んでいた。こうした悲惨な情景はいつになっても忘れられるものではない。六十年過ぎた私の頭にいまだに残る「関東大震災の歌」を記してこの稿を終る。

関東大震災の歌

1 天に自然の道理あり
  人に天賦のみ魂あり
  自然は人を制すれど
  人また自然を制すなり

2 時これ大正十二年
  九月一日 正午ごろ
  大地俄に 揺ぎ出し
  縦また横に ゆすぶれて

3 家は破壊し人潰れ
  山は崩れ 土地はさけ
  世の破滅かと思はれて
  人に生きたるここちなし

『嵐山町報道』316号 1983年(昭和58)9月10日
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