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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第3節:災害・消防・警察

風水害

三っ沼裏共有原野の買収について

             —— 市川万吉 ——

「青木村長は、村内に工場が出来れば、村民は雑役に使われて有利であるといった。」これは昨年(1960)九月某日に、小川町及び越畑の三ツ沼裏共有原野の地主数十名が、越畑公民館に集合した席上、誰の発言であつたかその時の参会者は思い起せると思う。その後、同年旧九月十三日の前日、秩父セメントの全権大使級の外交員が私方を訪れ、莫大な手土産を私の目前に差出して、同社の、越畑三ツ沼裏用地買収計画に対し、私が強い反対者だが、買収に応じて貰い度い旨を長時間に亘つて要請した。この外交員の言葉に憤然とした私は、「私は何もムヤミに反対するのではない。越畑分三ツ沼裏の原野を一町近くも掘れば夏の豪雨の時には、七郷一の貯水量を誇る三ツ沼も、完全に堤防が決潰して、滑川村まで浸水家屋を出し、伊勢湾台風のように、数分乃至(ないし)数十分、数尺、丈余の高浪が襲来して、言語に絶する被害が生ずることは明かである。何故なら、現存の土橋政一さんが子供の時、大正の初期、三ツ沼堤の決潰があり、うろこさがしの魚さがしに行つた覚があると言つている。どうしても、この用地が必要なら、その沼下(菅谷・滑川・小川の市野川沿岸)に、一、八〇〇万円の補償をして貰いたい」と強く要求した。この金額は、田畑・道路・橋梁・護岸の流出決潰、沼堤防の復旧工事、沼下水田の植付不能を見込んだもので、人畜の被害、養魚の流失等は計算に入れてないものである。
秩父セメントの外交員は、私の説明を諒承し、水利に明るい会社の技師に調査させ、その後又伺う、といつて帰つて行つた。手土産は押問答の末、外交員の自転車の荷かけに縛りつけて、返却した。かくして私は独断にも、会社が、用地買収前に沼下へ一、六八五万円を補償として現金で支払えば、積極的に協力し、且つ外交員に特級酒一升を呈上する旨を述べました。
所で、この、私一人が会社に要求した金額は不当であつたか、多すぎたか、過少であるか、報道紙上で御批判を賜りたい。

『菅谷村報道』128号 1961年(昭和36)11月30日
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